[#表紙(表紙.jpg)] 人間通と世間通 �古典の英知�は今も輝く 谷沢永一 [#改ページ] [#3字下げ]ま え が き  この一冊は、欲の深い人のために書いた本である。  つまり、何かを読むのに貴重な手間をかけた以上は、必ず効果《もと》をとらねばならない、と考えておられる方々に向けた本である。すなわち、人生の持ち時間をできるだけ有効に使いたい、と願っておられる方々を、念頭においた本である。言い換えれば、書物を読むという労力は、そこから何らかの栄養分を摂《と》るための収益行為であると信じておられる方々の前に、「人間通《にんげんつう》」、「世間通《せけんつう》」というテーマに関して、そっと差し出す本なのである。  世には、読書のための読書を楽しむ人びとも少なくない。それはそれで高尚な趣味であると申せよう。しかし、私は、かなり若いころから、読書とは、この人の世に生きゆくための、知恵を蓄《たくわ》える準備行動である、と、一人合点に考えてきた。  読書、それは、それ自体を目的とする娯楽ではない。読書、それは、人生を、より実りあるものにするための、習練《トレーニング》である。生意気にも初めからそう思い込んできた。  そんな考え方はせせこましい、と眉をひそめられる方があるかもしれない。しかし、恐縮ながら、私はどうやらかなり性急《せつかち》な性質《たち》なのであろう。要するに私は、本を読んで得《とく》をしたかったのである。したがって私は、読書についての評論を書きはじめたときから、読者の趣味に奉仕することは自分の任ではないと考えた。書物について何か書く以上は、必ず、読者の得《とく》になるように仕向けようと思った。商店の広告《チラシ》には、通例として、お買い得《どく》、という惹句《キヤツチフレーズ》が使われる。それになぞらえて言うなら、私は、私なりに、これは、お読み得《どく》、という本をしか扱わなかった。  そのような方針を貫《つらぬ》こうとして、あえて企画したのが本書である。  この本には、たまたま、古典、と目《もく》されている類《たぐ》いの書物が扱われている。しかし私は古典を尊敬してひざまずくようなことはしなかった。ちょっと高いところにあるように見える古典に手鉤《てかぎ》をかけて、ぐいと手許に引き寄せた。いま出版されたばかりの新刊書に対するのと同じように、ごく気易く、手ぶらでつかつかと近づいた。だいたい、古い時代に書かれた本は、ほとんど長ったらしく退屈である。そこで余計な部分は横目で睨《にら》んで省略し、その精髄《エツセンス》だけを抜き出し提示しようと努めた。  ひじょうに小さな声でそっと申しあげるのだが、ここに採《と》りあげた古典の枢要《エツセンス》は、本書の中にほぼ封じ込めたつもりである。古典であれ新刊であれ、書物は何も全部を読みとおす必要はない。核心《エツセンス》が分かればそれでよいのだと、効能を重んじる私は考えるのである。  ところで、本書は『古典の読み方』(祥伝社、一九八一年九月一日刊)というタイトルで出版された原稿が土台となったものである。お読みいただければ分かることだが、私にとって初めての系統立った「読書論」の執筆ということもあって、この世の中で勉強しなければならない事象とは「人間とは何か」ということと「人間社会のメカニズムとは何か」という二つのテーマに集約されると、まことに大胆な提言を行なったものである。  それだけに思い出深い原稿だったが、ずいぶん以前に祥伝社版は絶版となった(今はPHP文庫に収録)。今から一五年前に書かれたものだが、読み返してみると現代日本人にも充分通用する。いや、イデオロギーの対立というものがこの世界から消え去った今の時代にこそ、この本の内容は相応《ふさわ》しいと思える部分も多い。  そんな折、クレスト社から旧稿に手を加えて新版として出版するつもりはないかとの問合わせがあった。そこで、現代に生きる私たちが、ともすると見忘れている英知がキラキラと輝く『イソップ寓話』と『チャタレイ夫人の恋人』を新たに書き加え、旧稿の本文を現代的な視野に基づき大幅に加筆・訂正したのが本書である。  旧稿をすでにお読みの方もおられることだろう。だが本書で採りあげたのは古典中の古典ばかりである。そして古典とは、それを読む読者の年代に応じて、まるで違った側面で私たちに迫ってくるものである。私の拙文を通じてではあるが、きっと新たなる発見があると信じている。  平成八年八月 [#地付き]谷沢永一《たにざわえいいち》 [#改ページ]     目 次   ま え が き 第1章 今、なぜ古典なのか  ──二十一世紀を切り拓《ひら》く知恵の源泉を求めて   (1)「古典」の現代的価値が輝く時代[#「「古典」の現代的価値が輝く時代」はゴシック体]   ──生きるのが上手《うま》くなるための読書法とは    人間観察の腕前で、幸せが左右される時代    人間的器量の有無《うむ》が問われる時代    生きるのが上手《うま》い人・下手《へた》な人    読書万能論の危険    現代人にとって読書の目的とは何か    まず、模倣《もほう》できる眼力《がんりき》が肝心    人間にとって咀嚼《そしやく》力とは何か    時代の動きを洞察してこそ、努力は生きる    「時代の常識」の奴隷か、雇用主か    「戦後」は昭和五十四年十二月二十七日で終わった    戦後のタブーを生み出した非常識きわまりない「常識」    ついに幽霊となった戦後の「常識」   (2)人間を知り、世間を知ってこそ[#「人間を知り、世間を知ってこそ」はゴシック体]   ──よりよく生きるために学ぶべきこと    「勉強」には二つの種類しかない    「個人の美徳は集団の悪徳である」    「学問」に恐れ入る必要はない    自己消費型文学に付き合う必要はない 第2章 世間通《せけんつう》になるために  ──「人間社会のメカニズム」の根本とは何か   (1)「社会のメカニズム」を知る栄養剤──『イソップ寓話』[#「「社会のメカニズム」を知る栄養剤──『イソップ寓話』」はゴシック体]   ──現代にも脈々と生きる「古典の中の古典」に学ぶ    奴隷が書いた「古典の中の古典」    人間通《にんげんつう》・世間通《せけんつう》になる栄養剤としての古典    人間関係学の最高傑作──「北風と太陽」    人の世は、負けるが勝ち    平成の「屋根の上の子山羊《こやぎ》」──霞が関官僚    何を尺度として優劣を判定すべきか    人間の値打ちを決める最終的な要件    知恵と悪知恵の分水嶺《ぶんすいれい》——倫理観《モラル》    選抜《エリート》官僚が責任を取らない理由    今こそ、I種試験を廃止せよ   (2)最も上手な生き方のすすめ──『論語』[#「最も上手な生き方のすすめ──『論語』」はゴシック体]   ──名著『論語の新研究』が明らかにした新事実    宮崎市定《みやざきいちさだ》の『論語の新研究』が名著である理由    本物の学者・卑《いや》しい学者    『論語』が説く「信」とは何か    日常の些事《さじ》にこそ、人間性が現われる    人間の才能や価値は、けっして等しくはない    人間は区別されるべき存在である    生きるのが上手《うま》くなるための英知のすすめ    「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」    「知る」より「好む」、「好む」より「楽しむ」    気持ちは行動で示してこそ価値がある    なぜ、孔子は形而上《けいじじよう》学・進化論を排除したのか    卑俗に徹したがゆえに永遠に輝く    「思って学ばざる」——現代日本人の悲劇    「教えを仰ぐこと」に誇りを持ちたい   (3)説得の表芸と裏芸──『ジュリアス・シーザー』[#「説得の表芸と裏芸──『ジュリアス・シーザー』」はゴシック体]   ──シェイクスピアが展開した人間関係論の極致    「説得の技術」の王道とは何か    大義名分だけで、人は納得するのか    相手の論理を引っくり返すテクニック    理性ではなく、人は感情で動く動物である   (4)人間が人間を評価する基準──『プルターク英雄伝』[#「人間が人間を評価する基準──『プルターク英雄伝』」はゴシック体]   ──知謀に長《た》けた人間には、どんな落とし穴が待っているのか    少年時代、私が最も感銘を受けた一節    �人間は、評判のよすぎる人間を嫌う�    偉人、英雄を駆《か》り立てる情念の本質    人間は、一度《ひとたび》思い上がると止めどがなくなる    知謀に長《た》けた人間に待っている運命    人間が他人を評価する原理とは   (5)歴史に必然性なし──『三国志』[#「歴史に必然性なし──『三国志』」はゴシック体]   ──日本人は、なぜこの歴史物語を最も愛読したのか    『項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》』が歴史的名著である理由    「大義名分」「実力」「誠実」——『三国志』を支える三本の柱    「大義名分」には、必ず弱点がある    「実力の論理」、「悪の論理」の魅力    「出師《すいし》の表《ひよう》」で諸葛孔明《しよかつこうめい》は何を言いたかったのか    英雄豪傑に見る二つの人間典型    「三顧の礼」の東洋的意味    『三国志』が日本人に教えたもの   (6)思想人間・政治人間の仮面を剥《は》ぐ──『悪霊《あくりよう》』[#「思想人間・政治人間の仮面を剥《は》ぐ──『悪霊《あくりよう》』」はゴシック体]   ──予言者・ドストエフスキーが洞察した社会と人間心理の関係    政治思想小説の二大古典    革命思想が、なぜ悲劇的かを解明した名著    政治思想小説が持つ宿命的な欠点    では、政治思想小説の役割とは何か    内ゲバ殺人事件に飛びついた文豪    革命家とは何ぞやを説き明かす    理想主義者に向けられた諷刺と嘲笑    理想主義者と革命家との決定的な違い    革命家の説く楽園とは何か    社会主義思想の末路を的確に予言    予言者ドストエフスキーの秘密 第3章 人間通《にんげんつう》になるために  ──人間性に潜む�本質�を読み取る秘密   (1)「あたたかい心」と「やさしい心」──『チャタレイ夫人の恋人』[#「「あたたかい心」と「やさしい心」──『チャタレイ夫人の恋人』」はゴシック体]   ──ロレンスが明かしたセックスの到達点にあるもの    性の思想家、D・H・ロレンス    人間に与えられた�完全に公平なもの�    性における�一方通行�の問題点    男にとって「性生活の理想」とは    男たるもの、油断は禁物    「思いやり・やさしさ」とは何か    性を軽んずる者は性に復讐《ふくしゆう》される    女性を喜ばせる「第三の手」    女性には、天が与えた宝石がある    近世日本人の苦心|惨憺《さんたん》──元結《もつとい》    女性には、どんな心遣いが必要か    セックスレス夫婦のための�性典�   (2)世間体《せけんてい》と自尊心の関係──『この世の果て』[#「世間体《せけんてい》と自尊心の関係──『この世の果て』」はゴシック体]   ──�帰ってきた人間嫌い�サマセット・モーム、ただ一つのテーゼ    �姦通《かんつう》�を題材にした珠玉の短編    世間体《せけんてい》を優先すれば、自分の幸福は逃げていく    人は、なぜ人に相談するのか    決断の底に隠された本当の動機    感謝とか報恩を他人に期待してはならない    「人間性とは、たいてい馬鹿げており、悲しいものだ」    帰ってきた人間嫌い・モームの本質   (3)素っ裸にされた人間性の真実──『箴言集《しんげんしゆう》』[#「素っ裸にされた人間性の真実──『箴言集《しんげんしゆう》』」はゴシック体]   ──ラ・ロシュフコーが徹底して洞察した人間の行動原理    最も鋭く、最もエッセンスに富んだ傑作    光り輝く人間洞察の珠玉    痛烈な自己反省に根ざした著作    自己愛という怪物の正体    自尊心とは、まことに傍迷惑《はためいわく》な存在である    妬《ねた》みは慢性疾患、憎しみは外傷という洞察    「運」とは偶然か、それとも必然か    人間にとって恋とは何か、友人とは何か    洞察力、先見性に潜む危険性    読書が、まるで肥料《こやし》とならない人間とは    『箴言集』を他人に向けて発射してはならない   (4)性に魅《み》せられた魂──『マイ・シークレット・ライフ』[#「性に魅《み》せられた魂──『マイ・シークレット・ライフ』」はゴシック体]   ──すべての性交渉のパターンが網羅《もうら》された世界の珍書    開高健《かいこうたけし》が賛嘆した�天下の奇書�    はっきり、さっぱり、あくまでも即物的に    ポルノ小説の原理・原論    歴史の現実に対する貴重なる証言    �ヒューマニズム的発作�に駆《か》られてはならない    「金はなくとも色事はできる」のお手本   (5)日本とは何か──『日本文化史研究』[#「日本とは何か──『日本文化史研究』」はゴシック体]   ──一大の碩学《せきがく》・内藤湖南《ないとうこなん》が主張する「歴史観察」の基準    本物の学者、本物の学問とは何か    歴史の洞察には何が必要なのか    日本の歴史が鎌倉期の前後で二分される理由    歴史とは、つねに「|勝者の都合《ビクトリー・ジヤステイス》」で語られる    この世の中に、中立的な歴史は存在しない   (6)読書を実生活に生《い》かす知恵[#「読書を実生活に生《い》かす知恵」はゴシック体]   ──人間にとって、成長とは何か    「論語読みの論語知らず」にならないために    嫉妬心を超越した自己反省こそ大切    永遠のテーマ──今の若者は礼儀を知らん    成長拒否的言辞に惑わされるな    優遇される人物・不遇に終わる人物    読書の究極の目的とは    名著を選びだすカンとは何か [#改ページ] 第1章 今、なぜ古典なのか   ──二十一世紀を切り拓《ひら》く知恵の源泉を求めて [#改ページ] (1)「古典」の現代的価値が輝く時代   ──生きるのが上手《うま》くなるための読書法とは 人間観察の腕前で、幸せが左右される時代[#「人間観察の腕前で、幸せが左右される時代」はゴシック体]  今、日本の実社会に働く誰もが、いちばん心を悩ませているのは、人間付き合いのむつかしさにどう対処するかの工夫、つまり、自分の基本姿勢のスタンスをどう取るかということである。  社会全体が貧しい時には、モノを作るという即物的な、原始的な力が中心となるから、仕事の進め方はテンデンバラバラでも、一応の効果は上がった。そういう段階での社会の構成は、ドンゴロス(麻袋)にジャガイモをたくさん詰め込んだようなもので、一つひとつ、つまり一人ひとりに、ジャガイモとしての食用価値、利用価値がありさえすればよかった。しかし、現代のように豊かで高度になった社会では、モノの生産が主ではなく、モノをどう組み合わせて生《い》かすかという、モノそのものではないトータルな文化の生産が主となっている。だから、個々の生産力ではない生産のシステム化が、社会の根本的な課題となっているわけである。  したがって、これからの時代は一人ひとりの個人にとって、自己を生かすための有効な人間関係の、新しい原理と様式の発見が、個人を幸せにするかどうかのテーマとなる。  技術が人間を引っ張る時代は終わった。これからは人間が技術を引っ張る時代である。新しい時代の人間の価値は、人間関係の調律の腕によって決まる。今や現代の老いも若きも、人間関係に神経を集中している。人間関係のむつかしさをあらためてしみじみ自覚し、それをどう持っていこうかと真剣に考え込んでいる。期せずしてわれわれは、知らず識《し》らず、二十一世紀の課題の中心に直面しているのである。  そこで、まず注意しておきたいのは、人間関係の考察には一つだけ厄介な問題があるということである。  つまり、この道に関しては、即効薬がないということである。大阪の道頓堀《どうとんぼり》には有名な�食《く》いだおれ�という食堂ビルがあって、昼前の開店から夜の閉店まで、いつも食い意地の張った善男善女で満員だが、猪料理を食べさせる店の表に大きな看板があり、�今夜間に合う金玉料理�と身も蓋《ふた》もない宣伝文句が掲《かか》げられていたことがある。  もちろん、これはご愛嬌であって、誰も字句どおりに信じているわけではないが、まあ、今夜は無理にしても、せめて明日か明後日《あさつて》の晩には、多少なりとも験《げん》があるはずだと、ジューッと焼いてせっせと口に運ぶ、その間に元気が出てくるというものだ。人生、何ごとも気の持ち方であって、陽気にモリモリ食う景気づけは、いつも肝心なのである。 人間的器量の有無《うむ》が問われる時代[#「人間的器量の有無《うむ》が問われる時代」はゴシック体]  だが、言うまでもなく基本は体力。全体としての健康な活力がなければ、いくら急にビフテキを食っても、すぐに力が出るわけがない。平素からの体力づくりを怠《おこた》っていれば、せっかくの栄養が胃と腸を素通りしてしまうかもしれない。このように、人間関係のカンをつけるのも、ちょうど精神の体力づくりに相当する。そして、ここでの重要な原則は、急がば回れということである。  たしかに技術的な勉強や、各種のハウツーものも大切で、それらを抜きにできないのは当然だが、こういったものを自分の体内で咀嚼《そしやく》して充分に活用するには、技術や知識を生かす方法、それを人間関係というチャンネルに乗せる工夫、つまり血の通った自己流に変えてしまう、絶えざる気働きが先行せねばならない。この世界では、応急の間に合わせとか小手先の芸は通用しないのである。  日本人の特色は他人の肚《はら》の底を見抜く時の、ひじょうに鋭いカンにある。欧米人は理屈人間、日本人はカン人間。しかも、日本人が他人に向けるカンはまことに恐ろしいもので、人を舐《な》めてかかっては必ず失敗する。日本の社会で仕事を有効に運ぶには、人間の器量がいちばん大切。相手はまずこちら側の器量を観察している。この暗黙の試験をパスしなければ、日本の社会では何もできない。  当方がいくら美辞麗句を並べ立てても、相手が当方の器量を軽く見れば、いっさい相手にされない。そういう場合の相手は、ニコニコ笑って、「よう分かりました、考えときまっさ、また来とくなはれ、サイナラ」。つまりオトトイ来いと、テイよく追っぱらわれるだけである。  こういうふうに肝心カナメの、その器量とはいったい何か。実はまことに簡単であって、人間関係のカンがつねに働いているかどうか、人間観察眼が水準に達しているかどうかの問題なのだ。もう少し具体的に言えば、人間性および人間社会についてワカっているかどうか、つまり人間通《にんげんつう》・世間通《せけんつう》かどうかの手応《てごた》えなのである。  人間観察の神経が生き生きと働いているかどうか、それによって、せっかく今まで努力した技術と知識が、生きたり死んだりする。そしてこの微妙なカンを養うのは、今夜間に合うハウツー書だけでは、ちょっと無理、そこは年月のフルイにかけられた、幅広い古典の中からのつまみ食いが、じわりじわりと効《き》いてくるのである。 生きるのが上手《うま》い人・下手《へた》な人[#「生きるのが上手《うま》い人・下手《へた》な人」はゴシック体]  昨今は漢方が見直されてきて、漢方の効用の再発見で体質づくりにいそしむ人が増えてきた。しかし、正しい意味での漢方は、いわゆる民間療法とは違う。対処療法を行なうのが民間療法だが、漢方とは一般的な症状や病名にこだわらず、総体的な容態に応じて、最も適した方策を考え、必ず何種類かの薬を混ぜて用いる。それも、ただあれやこれやを、足《た》し算の方式で混ぜるのではない。つまり、どれほど霊験《れいげん》あらたかな薬でも胃がそれを充分に吸収しなければ、せっかくの服用がなんにもならない。まずは吸収させなければならないのだから、道筋としての、吸収を活性化させるための別個の薬と綿密に組み合わせ、両者の総合効果を図《はか》らなくてはならない。ここに漢方の極意《ごくい》があるのである。  読書の方法もまた同じ。直接に効く技術的なハウツーもの、知識そのものをストレートに伝える実用書と同時に、それらの核心的な含意《がんい》や周辺のニュアンスを、じっくりと浸み透るように咀嚼《そしやく》するには、理解力を促進させるに足《た》る基本薬による�地ならし効果�が必要となる。症状に応じての薬が具体的な実用書、それが時間をかけて満遍なく浸透するよう、効く薬を運び届ける道案内としての薬が、知恵の結晶としての古典なのである。種|蒔《ま》きは実用書、その前、およびそれと同時に、鋤《すき》や鍬《くわ》を使っての畝《うね》ごしらえ、田植えに備えての水田づくりが、古典とのツキアイに当たるのではなかろうか。  高度成長期の昔は、人間関係に無感覚でも、男一匹、腕一本の技術だけで、一角《ひとかど》の人物として一人前のツラができた。だが、これからの時代は人間関係の確かさ・巧さ、それが生き方の死命を制するようになる。人間関係は知識とか技術ではなく知恵である。成熟社会は知恵の時代。知恵こそ源泉、今こそあらためて古典の活力を、ぜひとも再発見しなければならない時代なのである。 読書万能論の危険[#「読書万能論の危険」はゴシック体]  ところで、なぜ古典の英知が今も必要かを説いてきたわけだが、それとは別に読書万能論というか、読書さえしていれば人間は向上するという迷信、誤解の類《たぐ》いが蔓延《まんえん》しているのも事実で、これはやはり危険なことである。  ことに現代日本人の特性の一つに、本を読むことが総合的な人格を深めるのに最も不可欠な王道であるとか、効率のよい近道であるとか、あるいは必須《ひつす》の条件であるということが、何の証拠もなく思い込まれている点がある。それが一方では、年寄りの、若い世代に対する脅迫的な説教の材料になったり、あるいは中年以上のかなりの読書家に対して、自分の読書量ではまだまだ不充分ではないのか、という劣等意識を掻《か》き立てさせる要因になったりしている。こういった読書に関する強迫観念は、情報化時代ということがしきりに言われるようになって以来、とくに顕著なようだ。  やはり、現代人は読書に対する信仰が多すぎる。書物を上手に読むということは読み方とか読むものによるのであって、やみくもな読書一般にそれほど大きな効果はないのである。その証拠に、たいへんよく本を読んでいるという人、あるいはそれを鼻にかけている人種を実地に観察してみれば、よく分かる。そういう人間がたいへん好ましい、立派な人物として映るかというと、意外にそうではなく、だいたいにおいて嫌味ったらしい人間が多いのではないだろうか。  ただし、ものには例外が必ずあるわけで、たいへん博学で、読書人で、かつ人物としても好ましいという人間はいるものである。しかし、それは書物をたくさん読んだからそうなったのか、その人の人格的な成長の条件、あるいは本人の心構えによってそうなったのかと考えると、むしろ後者のほうではないかと思われる。  だから、現代では書物を読むことに大きなウエートを置いているタイプは、結果として、どうも傍目《はため》からは嫌味ったらしい、付き合いにくい人間と見られるようである。つまり、読書量だけを誇るということを、われわれは逆に警戒すべき時期に来ているように思えるのである。 現代人にとって読書の目的とは何か[#「現代人にとって読書の目的とは何か」はゴシック体]  書物というものは、結局、栄養である。われわれは栄養を摂《と》るために、あるいはおいしいものを食べるために食事をするわけだが、同じように、舌の味わいを楽しみたいという目的とか、何か自分の精神の糧《かて》になるような栄養素を体内に摂取したいという目的、あるいはその両方の目的のために書物を読むのである。だから、その目的に合致しない、つまり楽しみか栄養摂取か、そのどちらの効果も上がらないような読書は、まあ、個人の趣味と言ってしまえばそれまでだが、それはちょうどタバコを吸うようなものなのである。  栄養を摂りたいという場合は欲求が明確である。つまり、体力をつけなければとの願いが先に立ち、土用の丑《うし》の日に鰻《うなぎ》を食う要領で、自ずから求める本の範囲が限定される。現代社会がどう動いているのかを肚《はら》に収めるために、多少はむつかしくても当代エコノミストの代表的著作に、襟《えり》を正して食らいつくという姿勢がこれである。もっと具体的に言えば、時代に遅れないようインターネットに関する案内書に取り組む。あるいは気の長い向きなら『国富論』(中公文庫)から始めるかもしれない。『経済発展の理論』(岩波文庫)をマスターしようと、ネジリ鉢巻で臨《のぞ》むのも悪くはないだろう。  だが一方、いくらリキがつくからといって、鰻ばかりも食ってはおれない。人間だからやはり味の変化が欲しい。気張らずに食べる舌の楽しみ。精神衛生のための清涼剤。もっとも人間は欲のカタマリだから、肩肘いからせずに心やすく読むうちにも、何かちゃんとモトを取っておきたいものだ。昔、出版の天才・野間清治《のませいじ》は「おもしろくてタメになる」というモットーを講談社の社是《しやぜ》としたが、司馬遼太郎の一連の歴史小説、山岡荘八の『徳川家康』(講談社)などはその代表格、もう少し気むずかしくいきたい場合は、『山本周五郎全集』(新潮社)がうってつけではあるまいか。  さらにひねくれて�無用の読書を�と、狙いを定めるのなら推理小説、中でもハードボイルド系統がそれにピッタリであろう。この分野の作家たちは生真面目《きまじめ》という美徳に背を向け、斜《しや》に構えての心意気を重んじる。  ストレートな表現を嫌ったヒネリの美学、世の中に対するオトナの感覚を主旋律とし、ブレンドしたタバコの微妙な味わいを、黙って一人で堪能《たんのう》すればよい。孤独な読書のホロ苦《にが》さを覚えれば、ほぼ一人前ではあるまいか。  だから、こういった精神で本をたくさん読んだということは、人よりたくさんタバコをプカプカ吸ってきたというのと同じであって、本人はそれで楽しんだかもしれないが、それは何ら自慢にすべきことではないのである。  フランスの詩人であるピエール・ルイスが言った警句に、「ギリシャ人が知っていた人生の楽しみ以外に、十九世紀、二十世紀の近代人が新しく加えたものといえば、おそらく�読書�と�喫煙�ぐらいのものだろう」というのがある。その警句に乗っかって、今、私は�読書・喫煙比較論�をやったわけだが、そういった読書が無意識のうちに、自分の中にどんなふうに溜まったかというのは、むしろ個人の摂取能力、胃腸の咀嚼《そしやく》力の問題であって、しかも、それぞれの人には固有の、ソシャク・パターンがあるのである。つまり、ある種の分野はよくソシャクするが、嫌いな分野はソシャクしないというパターンのことだが、そのため、読書はそれぞれの個人に、無限のバラエティーを結果として生んでくれるのである。 まず、模倣《もほう》できる眼力《がんりき》が肝心[#「まず、模倣《もほう》できる眼力《がんりき》が肝心」はゴシック体]  独創は尊ばれ、模倣は卑《いや》しめられる。しかし、ちょっと見には相反するこの両者、実は紙一重の隣り合わせと見るべきではなかろうか。生まれつきの独創性なんてこの世にありえない。赤ん坊の時から脳に深く複雑なシワが刻《きざ》み込まれていて、そのかげに独創が潜《ひそ》んでいると、誰が想像できようか。独創もまた学習の結果なのだ。長い歴史の積重ねの過程で、自分より先にできている有効な成分を、完全にソシャクして変質させれば独創、自分にソシャク力がないため、そのままのかたちで受け売りすれば模倣。要は、その人独自のソシャクを経由してきたかどうかにかかっているわけである。  だから、言うまでもなく、ソシャク力は不足していても、それは�それなりに�悪くないのだ。たとえソシャク力が不充分で受売りが主となっていても、受売りさえできない、模倣もようせんアカンタレより何倍か上に立つ。いいこと、役に立つことは真似《まね》ればよいのである。真似るに足《た》るものを仕込む努力さえせぬ、何もしない人間は単なる場所|塞《ふさ》ぎだが、手当たりしだいに模倣するのは、それ自体素晴らしい能力なのである。  独創、独創と、一つ覚えに空《むな》しいお経を唱えながら、結局は何もしない人間は、虚栄心に身をかくした怠け者である。独創は独創、模倣は模倣、行く道は異なっても到着点は同じ。人生、目的地が大切なのであって、方法は手段にすぎない。その手段にだけ意地になってこだわるのは阿呆《アホ》である。気にせず何でもどんどん模倣すべし。模倣と受売りも役に立つ立派な能力なのである。そして、模倣という道を通ってでなければ、独創に達することは不可能なのである。  たしかに独創はよいことだが、強く逞《たくま》しいソシャク力がなければ、何がしかの独創性は実現しない。だから肝心なのは、そのソシャク力を身につけるにはどうすべきか、ということなのだ。しかもソシャク力は天から降ってくるわけではない。食ったものを溶かして変質させて、もとのかたちからは引き出せない微妙な養分を絞《しぼ》り出し、抜き出すのがソシャクなのだから、ソシャク力を培《つちか》う方法はただ一つ、良質の食品をモリモリ量多く食べることだ。それでは、何を食べるべきか。食う価値のあるものとは、つまり模倣に値《あたい》する有用物だ。  したがって、ソシャク力の倍増策とは、そして独創を生む秘訣とは、第一に、模倣するに足る値打ちのある先行の業績を探し出し見つける眼力《がんりき》。第二に、それをなりふり構わず模倣する熱心、そこから自ずと独創が生まれよう。仮に独創という域に達しなかったとしても、ソシャクと模倣だけでも効果は充分。自分の能力を一ミクロンでも高めるためには、役に立つ先例を探すしかないのである。 人間にとって咀嚼《そしやく》力とは何か[#「人間にとって咀嚼《そしやく》力とは何か」はゴシック体]  内藤湖南《ないとうこなん》は超大型の東洋史学者。死後五〇年も経ってから全集一四巻(筑摩書房)が刊行され、その道の学者だけでなく、広く読書人一般の心の糧《かて》となっている。代表作の『日本文化史研究』(講談社学術文庫)は、初版が出てから早や七五年。時代が変わるたびに新しい版が出ている。ちなみに、平成八年の五月二十日付で第二十二刷が出版されるという根強い人気を保つ名著である。  この内藤湖南は秋田師範を出ただけ。学歴がないので、京都大学の教授に抜擢《ばつてき》されたとき、文部省が認めないと言い出した。たとえ孔子《こうし》さまといえども、学歴のない人間は帝国大学の教授にしない、という�正論�をふりかざす文部省に、当時の京大総長であった木下広次《きのしたひろつぐ》が抵抗しつづけ、二年後にやっと教授となった。内藤湖南は終始一貫、独学を貫《つらぬ》いた人であった。  その湖南が若き日に一人で見い出し、手本とした近世の天才学者が、かの富永仲基《とみながなかもと》である。今では『日本思想大系』(岩波書店、現在、品切)に、その代表作が収められているが、明治期にあっては富永仲基を誰も知らなかった。湖南は独特のカンで仲基の偉大さを発見、世界の学問史に卓越する天才と讃《たた》え、仲基の方法を自家|薬籠《やくろう》中のものにした。  湖南のスケールはあまりに大きく、仲基だけが彼のお手本になったわけではないが、湖南の本職である中国史料の文献学的批判においては、仲基の方法が一〇〇パーセント生《い》かされている。というより、若くして亡《な》くなった仲基が、抽象的な見透しとしてだけ構想した方法論を、現実の効果をもって裏づけしたのが湖南であり、また湖南の弟子の武内義雄《たけうちよしお》であった。  仲基と湖南を読み比べてみれば、ソシャクとは何かという壮大な実例が生き生きと浮かび上がってくるだろう。  もう一人近い実例を挙げよう。エコノミストの金森久雄《かなもりひさお》は、東京大学で経済学の講義を聞いても、どうももう一つピンとこなかった。隔靴掻痒《かつかそうよう》、足のかゆみを靴の上から掻《か》くような、ピタリとこない苛立《いらだ》ちを抱《いだ》いて、古本屋街を出たり入ったりさまよううち、ふと目についた一冊があった。それが高橋亀吉《たかはしかめきち》の『経済学の実際知識』であった。大正十三年に出て半世紀間売れつづけ、惜しくも今は絶版であるが、この装幀《そうてい》の悪い見すぼらしい一冊に出遭《であ》って初めて、金森久雄は経済の実際を見る目を開かれた。  単に理屈をこねるだけなら、既成のカッコいい理論体系を覚えて、それを振りまわすだけでいいかもしれない。だが、若き日の金森久雄は、経済の論理ではない経済の実態を、それも経済一般ではないわが国の現代の経済を、その血液の循環のカラクリを、実感で具体的に把握したかった。長谷川慶太郎の出現を俟《ま》つまでは、この方式でもって突き進んだのは、高橋亀吉ただ一人だったのである。  あるとき高橋亀吉は、「あなたの経済学は誰の説に拠《よ》っているのですか」と聞かれて、「ハイ、それは高橋説です」と答えた。いわゆる経済学者は既成の理論の枠組みへ、現実の経済を無理矢理に押し込める。そして理屈に合う部分だけ取り出す。  それとは逆に、高橋亀吉は事実と実状の観察から出発した。そして、剛毅《ごうき》な決意であったが、日本の経済の事実に即して、その実状を最も効果的に直截《ちよくせつ》に説き明かすための、役に立つ論理を一人で組み立てた。私の学問は高橋説だと、悠然と豪語した所以《ゆえん》である。  そこの呼吸を金森久雄は、迷わず見事に感じとった。金森久雄は高橋亀吉の説を真似たのではなく、高橋亀吉の狙ったところを身に体した。これが本当のソシャクというものであろう。 時代の動きを洞察してこそ、努力は生きる[#「時代の動きを洞察してこそ、努力は生きる」はゴシック体]  もちろん、世に自信家は多い。自分は初めから自己流でゆく。現実主義は自分のモットーだ。高橋亀吉だか富永仲基だか、そんな虫の食った本に教わる必要はないと、胸をそらす豪傑も少なくあるまい。それはそれで結構かもしれないが、あまりに自己流に徹すれば、ムダを省く知恵が後まわしになるのではあるまいか。  二章の論語の項でも述べるが、昔の尋常《じんじよう》小学校を出ただけで、算術のたいへん好きな若者がいた。師匠もなく仲間もなく、一人ぼっちの孤独な生活、一冊の本も手許に置かずひたすら沈潜、何年もかかってやっと成功したのは、なんと二次方程式の解き方であった。  これぞ世界的発明なりと、意気揚々と報告に来た若者を前に、先生は絶句した。二次方程式なんて最低の常識、その解き方に捧《ささ》げた何年もの歳月は、まったくの無駄であった。もっと有効に使えたはずのその長い時間は、取り返しのつかぬ一生の損失であった。こういう悲惨な羽目に陥《おちい》らないためにも、現代の水準をまず学ばねばならない。それを最も早くソシャクしてからでなければ、勉強しても実は意味がないのである。  また、これも昔の話だが、歯ブラシの製造が機械化される前、一本一本の毛は手植えであった。当時としてはこれでも高度な技術だったので、これを習い覚えれば一生|食《く》いっぱぐれはないと、徒弟奉公の苦労に耐えた男がいた。徒弟関係というのはすぐに教えてくれないもの。長い年月をかけてやっと一本立ちを許されるまで何とか漕ぎつけたところ、ちょうどその時期、毛を植える機械が発明されたので、彼の修業はすべて水の泡。その間ずっと寝そべって、無為徒食していた人間と、条件はまったく同じになった。手に職をつけるのはいいことだが、時代の状況に無関心であれば、こういう悲劇に陥りやすい。  当面の特定のテーマに、深く沈む無我夢中だけが勉強ではない。時代の状況に耳を澄まし、時代の動きをソシャクしなければ、努力それ自体が無意味になる。  つまり、時代の動きをソシャクして初めて、古典という先達《せんだつ》の知恵の凝縮が、自分の体のすみずみにまでゆきわたるのである。 「時代の常識」の奴隷か、雇用主か[#「「時代の常識」の奴隷か、雇用主か」はゴシック体]  では、現代という時代の状況に耳を澄まし、その動きをソシャクするにはどうすればよいのか。私は、そのための最も基本的な要件は、現代にいたる直前の歴史を、私心なく、客観的に把握することだと思う。  人間は、自分が生きている時代の、その時期に特有な暗黙の常識を、まるで古今東西を貫く一般原則であるかのように、無意識に信じてしまう癖がある。もっとも、社会構成の根本が少しも変化せず、時間の流れが止まっているような地域では、自分が生きている今日只今《こんにちただいま》の常識を、一般化していっこうに差支えない。中近東諸国などはそういった社会であろう。  しかし、西ヨーロッパとかアメリカ、さらには日本がそうであるように、先進国の根本原則は、実は変化である。大河のように緩《ゆる》やかながらも、動いてやまぬのが先進国の、近代社会構成の特色である。時代と隔絶して生きるのなら別だが、時代の条件に即応しなければ、社会的な生存が不可能な国では、流れの変化を掴《つか》みとる体内時計、その微妙な調整が肝要となる。  その場合にいちばん警戒すべきは、現代を固定化して考える習慣に、足をとられてしまう恐ろしさである。ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(東洋経済新報社)の結語として、繰り返し念を押して語りかける。──「どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である」。そして最後にもう一度、「しかし、遅かれ早かれ、よかれ悪《あ》しかれ、危険なものは、既得権益ではなくて、思想である」と、ケインズは訴える。ちなみに、この「思想」という訳語の原語は「ideas」であるが、「既成概念」と訳したほうがより適切であろう。われわれはどれだけ強く警戒していても、ついさっきの時代の常識の奴隷であり、現代の常識という浴槽の中に、プカリプカリと浮かんでいるにすぎない。  だが、それだけに終わってはいけない。現代社会に生きる心構えとか、今に生きる何らかの対策が必要となってくる。  もちろん時代の常識は大切であり、常識を欠いては生きてはいけない。しかし、常識の働かせ方には二種類の方策がある。すなわち、固定化した常識の枠の中に身を沈めているだけでは駄目なのである。そうではなくて、動態的に、つまり流れ動いてゆくかたちで柔軟な常識を身につけなければいけないことになる。常識に自分が使われるのではなく、自分が主人《あるじ》となって常識を使いこなさなくてはならない。常識の奴隷なのか、それとも常識の雇用主なのか、そこに生き方の分かれ目がある。 「戦後」は昭和五十四年十二月二十七日で終わった[#「「戦後」は昭和五十四年十二月二十七日で終わった」はゴシック体]  日本の戦後社会が標準型で、これが最もノーマルな人間社会の常態であると信じ込むようでは二十一世紀は生きてゆけない。今や戦後は、過ぎ去った歴史上の一つの時代にすぎない。つまり、すでに終わった時代なのである(この問題に関して、私は近著『悪魔の思想』─クレスト社、平成八年二月刊─で詳細に検証した。参照されたい)。  では、日本史上の戦後期とは、何時《いつ》から何時《いつ》までか。  それを区切る方法はいくつもあるだろう。政治の次元から見るか経済を基準にするか、尺度の取り方で微妙に変わるだろう。だが、時代の風潮という目には見えないが、そのくせ人びとを無意識の奥で縛る、つまり�常識の枠組みの変化�というものに着眼すれば、戦後はつい一五年ほど前に終わったばかりである。  私の考える戦後期とは、昭和二十年八月十五日、つまりポツダム宣言受諾の玉音《ぎよくおん》放送から、昭和五十四年十二月二十七日、つまりソ連のアフガン侵攻までである。このショッキングな報道、ソ連が共産圏の外側にまで侵攻の触手を伸ばしたことが伝えられた時、この時期をもって日本列島を包み込んでいた「空気」が決定的に変わった。もちろん空気が変わったのであって、人びとの考え方のすべてが変わったわけではない。  しかし、人びとの常識がはっきりと変わってゆくための、その変化を可能にし、促進するための条件としての「空気」が変わったのである。あの日を境に、時代の風潮は大きくうねりを生じはじめた。  たとえば学界において、たとえば新聞において、それまでは口にできぬほど押さえつけられていた言論が、ゆっくりとではあるが着実に、表舞台に登場することになった。憲法問題も防衛問題も教育問題も、その他いろいろ、今まで、それを議論しようとするだけで反動と見做《みな》され排斥された問題、つまりタブーが、議論や提案のかたちをとって進行しはじめたのである。  当初、まだまだ抵抗は大きかった。だが、それを理不尽に禁圧することだけはできなくなっていった。  つまり、空気が変わったのである。人びとの口を封じていた、暗くて重たいウットウしい雨雲が、列島の上から去ったのである。そして「ベルリンの壁の崩壊」「ソ連の解体」という歴史的大事件を経て、戦後のタブーがついに漸《ようや》く、封じ込めの氷塊としての力を失い、今や戦後期は、完全に過ぎ去ったのである。 戦後のタブーを生み出した非常識きわまりない「常識」[#「戦後のタブーを生み出した非常識きわまりない「常識」」はゴシック体]  戦後はタブーの時代であった。人為的な虚構の上に、非常識が常識として大手を振ってまかり通り、常識が禁圧されていた時代であった。  戦後のタブーはたくさんあるが、戦後独特のカッコつきのオカシナ常識は、次のような前提の上に成立していた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] (一)国際政治の非情冷酷な力学を、リアルに直視することが罪悪視された。世界は二つの両極から成立すると観念された。平和への意志で動く社会主義と、戦争をしたがってばかりいる高度資本主義・帝国主義との対立。つまり、世界は善意と悪意の対立で構成されるという、スターリンの邪悪な政治スローガンが、そのまま日本の言論界のオモテ向きの常識として採用された。   ソ連の崩壊後も、この「常識」は日本のマスコミを根強く支配しているように見える。共産主義・社会主義を標榜《ひようぼう》する中国《チヤイナ》を今も崇高な国と敬《うやま》い、彼《か》の国からのクレームをつけられた大臣の首を飛ばすことに、今も躍起になったりしているからだ。   だが、今日では、社会主義体制に対するこういった信仰が�大いなる幻影�にすぎなかったことは、誰の目にも明らかであろう。単に、ニュートンの説く「運動の第二法則」、つまり「慣性の法則」が働いているにすぎない。   戦後五〇年間もわが国を支配しつづけた「常識」(私はこれを�悪魔の思想�と呼んでいる)は、そのエンジンがすでに止まってしまったにもかかわらず、あたかもマンモス・タンカーのごとく、慣性の力だけで動いているにすぎない。   早晩、こういった「常識」は死に絶える運命にあるが、今日《こんにち》、その断末魔《だんまつま》の足掻《あが》きによる副作用がさまざまな方面で社会問題を起こしているのである。「いじめ」の問題もまた、その典型的な例の一つである。 (二)人間社会の構成の一筋縄でいかない複雑さを、リアルに直視することが罪悪視された。これも�悪魔の思想�のなせる技だが、社会は二つの両極から成立すると観念された。自由・平等への意志で動く人民層と、搾取《さくしゆ》および弾圧および侵略ばかり狙っている支配階級との対立。したがって、社会は地上の楽園を目指す善意と、地獄の苦しみを生みつづける悪意のカタマリとの対立で構成されるという、地獄極楽|曼陀羅図絵《まんだらずえ》の論理で割り切る世界観。ゆえに造反有理という毛沢東《もうたくとう》の煽動スローガンが、永遠の真理であるかのごとく崇拝された。 (三)日本の長い歴史過程を、その時代ごとの状況に即して、善悪の単純な裁定ではない歴史意識で、リアルに認識することが罪悪視された。歴史は善なる人民と悪なる支配階級の闘争史であるから、支配階級のやったことはすべて極悪非道である。だが当然、国家を運営したのは支配階級であるから、つまり、日本が過去に示した国家行動はすべて許しがたい没義道《もぎどう》ばかり。そこから自分の国の過去の実績をすべて否定するという、馬鹿の一つ覚えの罪悪史観が生まれた。   この「罪悪史観」は、社会党(現・社会民主党)が政権の座について以来、自民党の総理にまで伝染し、訪中の際に、わざわざ先の大戦について謝罪するという国賊的行為を採らせた。連立政権を維持させるためのパフォーマンスだろうが、時の総理が平然として国益を無視するというのが今の日本なのである。 (四)人間は我欲のカタマリであるという、誰もが日常、身にしみて知っている人間観察を、率直《そつちよく》に認めることが罪悪視された。人間のいかなる行動も、かならず我欲に発しているのだから、その常識を抹殺してしまえば、政界や経済界のすべての行動様式を、我欲に発するからイカン、けしからんと、無限に弾劾《だんがい》しつづけることができる。いちはやく他人の我欲を糾弾《きゆうだん》すれば、自分は清純な特別の存在に格上げされたような、免罪符を楽しむことができる。その結果、人間それぞれの我欲を、人情に即して適切に組み合わせ、全体としての社会の運行を円滑にし、一人ひとりに生き甲斐を与えるための、社会運営のリアリズム観察が、オモテに出せないイツワリの世となった。 (五)人間には適性と能力において無限の差があり、それを一律に平準化することは不可能だという、人間関係の実態に即したリアリズムが罪悪視された。衆に抜きんでることは罪であるという、シット心の凝《こ》り固まった平等論が跳梁《ちようりよう》した。能力に応じて素質を伸ばすという教育の本来の大筋が禁圧され、適性の開発が違反行為と見做《みな》された。教育は能力を引き出すのではなく、能力に差があることを否認したいあまり、下に揃《そろ》えることが民主教育だと信じられた。   その結果、なんと小学校の運動会の一〇〇メートル競走で、九〇メートルまでは自由に走っていいが、そこで全員が立ち止まって、皆で仲よく手をつなぎ一緒にゴール・インするという空前絶後の愚行が、平成の御代に首都・東京で行なわれたりするのである。 [#ここで字下げ終わり]  戦後のタブーはまだまだあるが、ごく大まかに数え上げれば以上のようになるであろう。何とコッケイな、バカげた迷信が、長く大手を振ってきたことであろうか。 ついに幽霊となった戦後の「常識」[#「ついに幽霊となった戦後の「常識」」はゴシック体]  もちろん、世の多くの健全な常識人は、この無茶苦茶なアヤマリに早くから気づいていた。しかし、それを堂々とオモテ舞台で反論する機会が与えられなかった。こういう愚かな迷信の一手販売権を握って、進歩的文化人とか戦後民主主義者とかいった連中がマスコミ界を壟断《ろうだん》し、徒党を組んで反対意見を制圧してきたのである。  だが、ついに彼らも年貢《ねんぐ》の納め時が来た。進歩的文化人の戦後タブーは社会主義聖者論に立脚している。戦後タブーの指し示すところは、日本を社会主義化するための準備作業であった。社会主義は聖者の悲願であり、社会主義は平和の守り神であり、社会主義はこの世の極楽であり、社会主義は人間性発揮の極致《きよくち》であり、社会主義によって人間は完全に救われるはずであった。  そういうバカげた信仰のタテマエが、とうとう一挙に崩れる日が来た。百日の説法、屁《へ》一つ。ソ連のアフガン侵攻に端を発するソ連の断末魔の叫びは、社会主義の神話を微塵《みじん》に打ち砕いた。イデオロギー論争はいざ知らず、少なくとも実感の次元で、社会主義のキレイごとのヴェールは完全に剥《は》ぎ取られたわけであり、この機微を確認しなければ、現代日本の風潮の、大きなうねりは理解されないであろう。  もちろん、先にも論じたとおり戦後のタブーは今日でも生きている。たとえば自由より平等を重んじる風潮もその一つで、日本の官僚たちは今も必死に自由競争社会の成立に抵抗を示したりしている。また、庶民の多くは「累進課税制」こそ正義の具現と信じたりしているのも、その一つである。しかし、それは実体のない幽霊なのだ。  戦後のカッコつきのタテマエに縛られていては、二十一世紀の課題に直面するという、最も大切な目標が見えなくなるであろうし、栄養としての古典の偉力も、あまり有効には働いてくれないのである。 [#改ページ] (2)人間を知り、世間を知ってこそ   ──よりよく生きるために学ぶべきこと 「勉強」には二つの種類しかない[#「「勉強」には二つの種類しかない」はゴシック体]  では、いったい私たちが勉強すべき主題というものには何があるのか。私は人間が勉強すべきテーマは、たった二つしかないと考えている。  一つは、自分自身がその一員であるところの、この人間というものが、どういう生理的、心理的な行動様式を持っている生き物なのか、つまり「人間性とは何ぞや」ということであり、これが人間として生まれ、生きている間の最大の研究テーマであろう。  そうしてもう一つは、個々の人間性ということとは自ずから次元を異にするところの「人間社会というものの運行のメカニズム、力学とは何か」ということである。 「勉強」ということを煎《せん》じ詰めれば、結局、この二つに帰結するだろう。  先にも述べたが、この二つと直接には関わりのない実務的な、あるいは技術的な勉強というものも、たしかに存在する。だがこれは、人間が生を維持するための必需品とでも言うべきもので、知恵というよりむしろ知識の分野に属する。だから、よりよく生きてゆくためには絶対に学んだほうが得であるという「精神の次元における勉強」のテーマは、結局、「人間とは何か」「社会とは何か」の二つしかないということになるのである。  そして、これらの勉強のために、われわれの前には実にたくさんの書物が提供されている。  しかし先にも触れたが、たとえば人間性に関する英知に満ちた書物を読んだからといって、読者の一人ひとりが必ずしも人間性に関する認識を深めたことにはならない。この点の注意は、くれぐれも肝要である。世の中には、たいして活字とか書物に接していない人で、人間性洞察の達人がいるものである。一方、万巻の書を読んではいるが、人間性に関してはまったくの無知、自分勝手で一人よがりの「自分人間」というものが大勢いる。  そうすると、こういった特性は書物を読んだ量ではない。あるいは書物の種類でもないことになる。では何かと言うと、それはその人間の自己反省力ではないだろうか。  つまり人間は、自分という暗黒の中に閉じ込められている生き物と考えていい。だから、人間が自分以外の人物、人間性というものを理解するためには、自分自身の精神を見つめる以外に方法はないことになる。あからさまに発露されてはいないだろうが、人間は自分の中に、よきにつけ悪《あ》しきにつけ、さまざまな衝動を持っている。その衝動を自分自身で一つひとつ見つけていく、あるいは、ためつすがめつ量《はか》っていく、そういう努力があって、その参考資料として書物がある、読書があるということになるのである。 「個人の美徳は集団の悪徳である」[#「「個人の美徳は集団の悪徳である」」はゴシック体]  問題はそれだけではない。今度は、仮に人間性というものをよくよく認識するなら、その人間の大集団である社会的人間の行動様式が、自ずから演繹《えんえき》的にすらすらと理解できるかというと、そう簡単に話は進んでくれない。そこがまた、この世のおもしろいところでもある。  たいていの近代経済学の授業の一時間目に教えられることに、「個人の美徳は集団の悪徳である」というものがある。  たとえばポール・サムエルソン(MIT教授)は、その代表的著作である『経済学』(岩波書店)の冒頭(一四〜一六ページ)にこの命題を示し、その証明として「個人にとって勤倹貯蓄に励むことは、あきらかに美徳である。だが、国民全体がこの美徳に走れば貨幣の流通は停滞し、国家経済は破滅の危機に瀕《ひん》する。このように、個人の美徳は集団の悪徳となりうる」と述べている。これは、「合成の誤謬《ごびゆう》」ということで世に知られているが、これと同じ力学はさまざまな局面で働き、集団としての人間は、個々の人間だけを見ていたのではとうてい推測できない�複合的な行動様式�を生み出すものであり、それが社会というものなのである。  貯蓄は悪徳か美徳かと問えば、これは美徳に決まっている。しかし、不況の時期に誰も彼もが、今までより余計に貯蓄をしようと財布の紐《ひも》を締《し》めて買い控えすれば、必然的に不況は加速度を加え、社会全体の不幸を倍増する。つまり、個人個人の次元では美徳である行動が、その集積である社会全体の振舞い方としては、おおいなる不幸のタネとなるのだから、その行動は、社会的には悪徳と言わざるをえないのである。  平成不況もまた、この「合成の誤謬《ごびゆう》」という力学を弁《わきま》えない大蔵官僚の無知が惹《ひ》き起こした悲劇だったと言ってよい。  ご承知のとおり、バブル景気は不動産業に代表される業種が担い手であった。いつの時代も、こういった�濡《ぬ》れ手で粟《あわ》�を地でゆく人種は、清廉潔白《せいれんけつぱく》を信条とする正義漢にとっては悪徳の権化のように見えるものである。しかも大衆には、この�正義派�が多い。マスコミはこぞって、彼らの悪徳ぶりを暴きたてるのに熱中していた。  こういった大衆心理をじっくりと観察してか、一人の大蔵官僚がバブル潰《つぶ》しに決定的な罠《わな》を仕掛けた。その罠とは、平成二年三月二十七日に出された「総量規制」であり、仕掛人は時の大蔵省銀行局長・土田正顕《つちだまさあき》だった。この「総量規制」とは金融機関に対する通達で、不動産業・建設業・ノンバンクへの融資は見合わせるようにというものだった。  この間の事情は『誰が国賊か』(渡部昇一氏との共著、クレスト社刊)でじっくりと腰を据えて展開したので、詳細はそちらに譲るが、ともかく首根っ子を突然、押さえられた日本経済は地価の暴落、さらに株価の暴落を招き、瞬時にして六六〇兆円もの「日本の富」が空中に消え去ったのである。  このように、個々の人間性を観察した結論をそのまま社会全体への結論として短絡《たんらく》した場合、結果は必ずしも有効であるとは限らない。いや、個人と社会を同列に置く一元論はむしろ有害となる場合が多い。個人と社会は別の次元にあると心得て、この二元論の二つの極を自由自在に往復する柔軟な思考法、余裕のある姿勢を忘れてはならないのである。 「学問」に恐れ入る必要はない[#「「学問」に恐れ入る必要はない」はゴシック体]  それでは、社会をどう認識すればいいのか。これも、人間性の把握と同じであって、自分が毎日生きていく現実生活の中で接触したり感知したところのものを大きく膨《ふく》らませてみたり、逆に縮約したり、蒸溜《じようりゆう》したり、精錬したりしていく以外に道はないと言える。つまり、はっきりそう意識してはいないにしても、自分自身の中でそういうさまざまな反省と演繹《えんえき》、帰納《きのう》といったことを続けていけば、徐々にではあっても、人間社会の複雑怪奇というものが分かってくるのである。  結局、問題は、人間の勉強という永遠のテーマであるが、それはギリシャ、ローマの時代から言われているように、「汝《なんじ》自身を知れ」ということにすぎない。あとは、そのバリエーションであって、そのための手段として、よほど上手に、よほど経済的に、つまり時間・労力のエコノミーを考えて、書物を読むということだろう。  一方、人間社会は文化の発生以来、実にたくさんの、それこそ卒倒したくなるほどの読むべき典籍の山を創りあげてきた。  よく言われる話に、「初めて宗教を発見した人間は誰か」という設問がある。  それに対する皮肉な答えがあって、それは「太古の昔、人はいいが、ちょっと抜けた愚か者に出会った知恵者がいた。その知恵者は、相手の持っているパンを、暴力を使わずに上手に取りあげる方法はないかと思案し、そこで、目には見えない想像の世界の住人である神様という存在を創りあげ、パンをその神様に捧《ささ》げなさいと、その愚か者に言って、自分が取りあげてしまった」というものである。  この有名な話と同じように、手を汚さないで、しかもカッコよく生きていきたいという衝動を持った人間が、学問とか文学とかいうものを、ごく初歩的なかたちで創りあげてきて、それを人類史は長い時間をかけて、これほど複雑怪奇なものに仕立て上げたのである。  その結果、たとえば世界大思想全集とか人類の知的遺産というシリーズものだけで、よほど精選しても一〇〇巻近く、ちょっと気を緩《ゆる》めれば、昭和の初めに出た世界大思想全集が二〇〇巻近くあったわけだから、われわれは、そういう押しつけがましい無数の存在に、背骨を押しつぶされそうになっているわけである。  あえて暴言を吐けば、学問の中には、学問というジャンルを存続させたり、それを発展させるためにだけ必要なものが存在する。あるいは学者という一つの生活スタイルを栄えさせるためにだけ創りあげられた学問もひじょうに多いわけで、書物を読む場合には、まず最初に、こういった事情を心得なくてはならないのである。 自己消費型文学に付き合う必要はない[#「自己消費型文学に付き合う必要はない」はゴシック体]  これはまた、文学の場合でも同じことである。つまり文壇というものがあって、文士、書き手という一つの集団がある。しかもその周辺には、自ら予備軍をもって任じている大集団がある。それから次に、自分を予備軍とまで規定するほどの意気込みはないが、何かそういう文芸的世界というものに自分が浸っていることだけを一つの喜びとする、つまり、文学の中にへたり込んでしまっている享受者という層があって、その周辺にわれわれ一般人がいるわけである。  まず文壇生産者階級があって、常習者としての消費者階級があって、その中でキャッチボールが行なわれている。さらに、その文壇の中には、解説者、あるいはチンドン屋としての評論家がいる。それから、その作家たち、または解説者が書き散らしたものを文献と称して、ありがたく戴《いただ》き、いろいろ議論を組み立て、そういう操作が知的活動であると思い込み、それだけを楽しくやって成仏《じようぶつ》していく連中がいる。しかし、それは俳句の結社と同じことで、すべて自己消費型の文芸でしかないのである。  ところが、純文学はそれとは違った高度な知的活動だ、という迷信もいまだに根強い。たしかに、その中には本当に襟《えり》を正して読むべきものも存在する。しかし、それはほんの上澄みであって、あとの大多数は、その場限りの消耗品にすぎない。  そんなものなら、歌謡曲のほうがよほど立派というものだ。  たとえば、雑誌「潮」に載《の》った青木雨彦《あおきあめひこ》と作詞家・阿久悠《あくゆう》の対談(昭和五十六年二月号)は、まことに印象深い。そこで、その一節を紹介しておこう。  青木雨彦が、流行歌の作詞をする時の�秘密�を聞きたいと話を向けたのに応じて、阿久悠は実に短くこう答えた。「今、なにか欲しいと言ってる人に対して、いちばん早いかたちで流して、感動なり感傷、感激がこもってしまわないで、リレーできる種類のものが歌なんですね」と。  これだけでも含みの深い見事な要約だが、さらに言葉を続けて、文学というものの生態学を説き明かす。つまり、「小説というのは、よかった、よかったと言って、ここから出ることはなかなかないわけです」と、阿久悠はすごいことを言い切る。これは史上、文学の悪口を言ったものの中でも金言として記録するに値するものであろう。しかし、大方の文学とは�ソンナモン�なのである。  ただし、そういうものに付き合うことが自分の楽しみだというのなら、それはそれで結構だが、学界とか文壇とかの生産物に、いつも体をどっぷりと浸らせていることが現代の日本人にとって欠くべからざる知的生活の必須《ひつす》条件だ、と思う必要は絶対にない。  現代日本人にとって貴重な書物、それは古典・現代物を問わないわけだが、それらはたしかに存在する。しかし、国際化が急激に進む現代、そういうもの以外の学問・文学に対する必要以上の尊敬心、あるいは尊敬心の裏返しとしての劣等感は、きれいさっぱり捨てなくてはならないのである。  以上のような観点を踏まえ、私は本書で一一冊の古典を採《と》りあげた。そして、それを「人間社会のメカニズム」を読み世間通《せけんつう》となるための方策、さらに「人間性」というものを読み込んで人間通《にんげんつう》に至る道の二つのテーマに大別してみた。  だが言うまでもなく、この二つのテーマ、実は目の付け方と考え方の違いであって、両者はつねに交流関係にある。どちらが先とか大切とか、いずれが基礎とか根本とか分離して割り切ることはできない。片方にのみ執《しゆう》するのは無意味であるし、どちらかが奥の院というわけでもない。  二つのテーマは円環のごとく、いずれは必ず出遭《であ》うのであるから、今はひとまず便宜的に、どちらかと言えば人通りの多い表参道として、「人間社会のメカニズムの本質」から取りかかろう。 [#改ページ] 第2章 世間通《せけんつう》になるために   ──「人間社会のメカニズム」の根本とは何か [#改ページ] (1)「社会のメカニズム」を知る栄養剤──『イソップ寓話』   ──現代にも脈々と生きる「古典の中の古典」に学ぶ 奴隷が書いた「古典の中の古典」[#「奴隷が書いた「古典の中の古典」」はゴシック体] 「歴史の父」と呼ばれているヘロドトスの『歴史』(岩波文庫・全三冊)をはじめとする伝承によれば、『寓話』の作者であるイソップの生涯は、紀元前六世紀初年に生存し、身分は奴隷であり、非業の死を遂げた、と要約できる。ただし、寓話の始祖であるかのように思われているとは言え、イソップが実際につくった話はこれこれであると、具体的に指し示すことのできる作例は一つもない。  むしろ、実在の人物であるイソップがこの世に現われるかなり前から、いわゆる�イソップ風の寓話�がかずかず作られ、語り伝えられていたと推察される。そしてもちろんイソップの死後にも、彼がつくったのであるというふうにかこつけて、これまた多くの寓話が発案されてきた。  それゆえ、われわれは、古代オリエント地方からギリシャを経て、たくさん考え出されてきた貴重な寓話を、さしあたり『イソップ寓話』と総称して受けとればよいのである。  そう考えるなら、さまざまな寓話のうち、どれが古いかと思案したり、本物か偽物かなどと区別する必要はない。多ければ多いほどありがたいのである。十五世紀の末になって、ウィリアム・カクストンの訳により、はじめてイギリスにもたらされて以来の、『イソップ寓話』の伝来と普及については、学者の研究にまかせておこう。  それよりも、ベン・エドウィン・ペリーが『アエンピカ』と題して、「イソップに関する、もしくはイソップに帰せられる、もしくはイソップの名を負う文学伝統と密接に結びついた、一連のテクスト」を集大成しようとした構想が、著者の死去によって中絶したのが惜しまれる。誰か好学の士が後を継いで、イソップ寓話総集の刊行を実現してくれるよう望みたい。  なぜ、そんなに、地団駄《じだんだ》踏むような思いに駆《か》られるのかと言えば、このイソップ寓話こそ、世界のあらゆる古典の中で、そっくりまるごと、少しも古びないで、そのまま現代に生きているという点で、最高の作品だからである。古典の中の古典なのだ。 人間通《にんげんつう》・世間通《せけんつう》になる栄養剤としての古典[#「人間通《にんげんつう》・世間通《せけんつう》になる栄養剤としての古典」はゴシック体]  率直にはっきり申すならば、現在、古典としてありがたがられている数多い書物のうち、今なお読んで本当にわれわれの栄養となる貴重品は、実は案外に少ないのである。大体、古典は二通りに分類できる。その一つめは、ある限られた特別な時代においてのみ、人びとの間に共通していたものの見方や考え方を映した作品である。その二つめは、二〇〇〇年、三〇〇〇年の昔から現代にいたるまで、いっこうに変わらず続いている人情を描いた作品である。  こう分けただけでただちにお分かりいただけるように、前者は学者の研究材料として大切に取り扱われるべき文化財なのだけれど、われわれ一般の読書人にとっては役に立たない無用の長物である。そして後者だけが、普通の生活者である私どもを人間通《にんげんつう》・世間通《せけんつう》に仕立て上げてくれる栄養剤なのである。  ヴィクトリア朝の宮廷政治に一喜一憂した貴族たちが、体面を保持するために汲々としていたその出処進退を、物語の中で読みたどるのはけっこうおもしろいけれど、彼らの苦心|惨憺《さんたん》は、さしあたりわれわれと無縁である。 『源氏物語』を読まなければ人情が分からないぞと、可憐な人びとを脅迫したのは、自分たちの学識を売りつけることによって報酬を求めた中世の連歌師の策略である。源氏を読み噛《かじ》っただけで人情に通じることができるなら、カルチャー・センターの受講生はひとしなみに、恐るべき人間通・世間通になれるはずなのだが、はて、その実態はいかがなものか。  それはさておき、人情には、表皮の部分と内実の部分とがある。時代にこだわった作品は、人情の表皮だけしか映さない。時代を乗り越えた作品は、人情の内実に分けいって描く。後者こそが、現代に生きる古典である。しかし残念ながら、後者に属する作品と言えども、まるごと全体そっくり生きている、というのはやっぱり稀である。たいていの場合、全体のうちの何割かは、古びて退屈を覚えさせるようだ。しかるに、『イソップ寓話』だけは、嘆息が出るほど素晴らしいことなのだが、どこにも時代遅れとして捨て去るべき部分がないのである。  文学の本旨が人情をうがつということにあるとするなら、『イソップ寓話』は、人情のなんたるか、世間のなんたるかをあらためて教えてくれるという意味で、まことに文学の中の文学である。しかも、人情をうがつという、このいちばんむつかしい課題を、考えうる限り、最も簡潔に成し遂げているのであるから、『イソップ寓話』は、最高の文学であると言えよう。  そう言えば、もともと、文学という表現形式を、とことん煮つめて圧縮したら、寓話という手法に帰するのかもしれない。二十世紀の大問題である共産主義政治への批判を、最も効果的に成し遂げたのが、同じく寓話方式による、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(角川文庫)であったことが思い合わされる。 人間関係学の最高傑作──「北風と太陽」[#「人間関係学の最高傑作──「北風と太陽」」はゴシック体]  それでは、大正・昭和期に最も広く読まれた楠山正雄《くすやままさお》訳『イソップ物語』(大正五年・冨山房)の訳文により、『イソップ寓話』の一端をのぞいてみよう。  イソップ寓話が文学という表現形式の純粋結晶とするなら、その中で最も見事に光り輝くのが、あまりにも有名な「北風と太陽」である。 「北風と太陽とが、勢力の争いをした。到頭《とうとう》二個《ふたり》は勢力をくらべることになって、旅人の外套《がいとう》をどちらでも早く脱がせた方が勝ちだと云《ゆ》うことになった。最初まず北風が試して見ることになって、なんのただ一めくりという勢いで、力一杯|旋風《つむじかぜ》のように吹きまくったけれども、北風がはげしく吹きまくればまくるほど、旅人は一生懸命外套の襟《えり》を押《おさ》えて放さなかった。やがて太陽の順番になった。はじめのうち太陽はやわらかにそろそろと温い光をおくった。旅人は直《す》ぐ外套の襟をあけて、肩の上に軽くかけたまま歩いて行った。そのうち太陽は有りったけの力を出してカッと照りつけると、旅人は二足三足行ったばかりで外套を奇麗にかなぐりすて、身軽になって相変らず旅行をつづけた」  感嘆すべき譬《たと》え話である。そもそも、われわれ一人ひとりが、この世でいちばん苦労するのは、自分とほかの人間との間柄を、どのように整えたらよいかという工夫である。すなわち人間関係の調節である。その問題を、いちおう人間関係学と呼ぼうか。もし、この人間関係学のコツを覚えることができれば、人の世に生きてゆく気苦労が、たちどころに著《いちじる》しく減るであろう。  その大切な人間関係学の教科書を探し求めるとするなら、この「北風と太陽」は、まさに人間関係学の序論であり結論である。いや、この寓話一篇の中に、人間関係学のすべてが盛り込まれているのだ。この世に心労なく生きてゆくためには、ほかに何一つ勉強する必要はないのであって、この「北風と太陽」を念頭においてさえおればよいのである。この、たいへん短くて読み間違いする恐れのまったくない明確な語りかけの中に、人情とは何かというむつかしい問題の眼目が、はっきり・ぴたりと指し示されているではないか。「北風と太陽」のお話を身に染みて理解しさえすれば、そのあと、あえて万巻の書を読む必要はないであろう。  人間関係を円滑にとりはこぶためには、あれこれとしちめんどうくさい考えをめぐらす必要はない。道は近きにあり、と昔から言いならわす。つまりは、人に心やさしく接すればよい。暖かい気持ちを抱《いだ》いて人に近づけばよい。ただそれだけのことなのである。思いたったその瞬間から、そうしようとすればできることなのだ。 人の世は、負けるが勝ち[#「人の世は、負けるが勝ち」はゴシック体]  しかし、この、ただそれだけのこと、これこそが実はいちばんむつかしいのである。およそこの世のすべての人は、生まれた時から死にいたるまで、自尊心というとげとげ・いがいがの塊《かたまり》を、胸の奥深くにずしんと据《す》えている。  それゆえ、自分は他人《ひと》から馬鹿にされているのではないか、誰かから舐《な》められているのではないか、という警戒心の鋭敏なレーダーが、しょっちゅうくるくる廻っている。そのため、まわりの人すべてに対して固く身構えてかかる。うっかり相手に対してものやわらかに出たら、頭を下げてきたなと見下《みくだ》されるのではないかと気をまわす。結果として、みんながお互いに角突き合う構図が出来上がる。当然のこと、みんな心の底では淋しく辛《つら》い。そこを痩せ我慢で踏んばっているにすぎないのである。  この調子では、お互い損ではないか。誰か一人、本当に一人でよいのだが、生来の自尊心の水位をちょっと下げて、鯱張《しやつちよこば》っている相手に、こちらは肩の力を抜いて、ものやわらかく、暖かく、やさしく近寄ってゆけばよいのである。よほどの手におえない朴念仁《ぼくねんじん》でない限り、実は相手もほっとして、気まずい雰囲気がたちどころに解消されること請《う》け合いである。人の世は、負けるが勝ち、ではあるまいか。  人間とは何か。人間とは、愛情に飢《う》えている生き物である。人間とは何か。人間とは、つねに淋しがっている切ない生き物である。その一人ひとりの人間の、その沈み込んでいる淋しさの気分を、ほんの少しやわらげてあげようではないか。人間が人間を、正味のところどこまで愛することができるかは分からないにしても、せめて幾分かは愛そうと努めることによって、相手の飢えと渇《かわ》きと疼《うず》きとを、またその苦しみを、少しは軽くしてあげようではないか。  何も自分一人、そんなお節介をする必要はない、と拗《す》ねることはやめよう。情《なさけ》は人のためならず、と言う。たいていの場合、こちらから情《じよう》を差し向ければ、幾分かは相手もまた情《じよう》をもってこちらに向かってくるものなのだ。  話の都合上、かりに百歩譲って、先方がかちかちの僻《ひが》み根性に凝《こ》り固まっていて、こちらの好意にまったく応答してくれない場合もあるとしようか。そういうときには、たしかに腹も立つだろう。何だか自分が馬鹿なことをしたと気を悪くするのも、当たり前である。だが、まるで籤《くじ》はずれみたいに、不幸にして相手に反響なし──これもまたよろしいではないか。今回はどうも巡《めぐ》り合わせ悪く失敗に終わったけれど、いつもいつも相手が情《じよう》なしの強情者《ごりがん》ばかりとは限らないではないか。  それよりも、かりに相手の反応が思わしくなかったところで、自分の平素の心持ちを、いつもやわらかに暖かく、やさしく保つことは、精神衛生にとってひじょうに有効であるだろう。それが実は何よりの健康法なのである。無理にジョギングなどするより、よほど血行を滑らかにして、新陳代謝《しんちんたいしや》を促進してくれること間違いなかろう。 平成の「屋根の上の子山羊《こやぎ》」──霞が関官僚[#「平成の「屋根の上の子山羊《こやぎ》」──霞が関官僚」はゴシック体]  さて、話題はがらりと変わって、次には、これはこれは、まるで平成の日本を象徴しているのかな、とも思える「屋根の上の子山羊《こやぎ》」の話が語られる。 「山羊の子が納屋《なや》の屋根の上にのぼって、茅葺《かやぶき》の間に生えている草や芥《ごみ》を拾って喰べていると、屋根の下を一匹の狼が通りかかった。それを見て、いくら狼でも、とてもここまで上がっては来られまいと高《たか》を括《くく》ったので、いい気になって子山羊は、やあい、やあい、とからかった。狼は顔を少し上げて、『分かってるよ、お前の云《ゆ》うことは。だが、そこでこのわしを馬鹿にしてからかっているのはお前ではない、お前の立っているその屋根だということを知らないか』と云《い》った」  この思い上がった生意気な子山羊こそ、平成日本の霞が関官庁を牛耳《ぎゆうじ》っている選抜《エリート》官僚の生態である。  現行のわが国における政治の組織《システム》では、国民の投票により選ばれて立法府を構成している議員たちは、いちおう重要な地位を保持しているとは言うものの、実は絶えず国民の監視のもとにあり、その意味ではつねに戦々恐々《せんせんきようきよう》としている。議会で大切な問題の審議が行なわれた場合には、必ず新聞とテレビによって細かに報道されるし、必要となれば委員会における質疑応答が、生中継によって直接に茶の間で観察されるようになっている。議員の一挙手一投足、その発言の一言一句までもが、満目注視《まんもくちゆうし》のまとである。議員は観客がいっぱいつめかけている劇場で演技しているようなものだから、一瞬一刻たりとも気が抜けないであろう。まあ、お気の毒、と言いたくもなるではないか。  しかも、議員には、閻魔《えんま》さまより恐ろしい選挙という審判が待ち受けている。もし国民の支持を失えば、落選の憂目《うきめ》をみること確実である。明けても暮れても必死になって、選挙民から信頼されつづけるよう努めなければならない。昔、大野|伴睦《ばんぼく》が、猿は木から落ちても猿であることに変わりはないけれど、議員が選挙に落ちたら何物でもなくなる、という名句を吐いたと伝えられる。  事実、選挙とは世にも怖い制度なのである。衆議院が解散になると、議員一同、やけくそのように万歳三唱して、こもごも自分の選挙区へ向かう。そして、何とそのうち三分の一の人数が、二度と議場へ帰ってこないのである。その連中は、彼らが選挙区を留守にしている間、虎視眈々《こしたんたん》と満を持して選挙の準備活動をしてきた新人候補に敗れ、よほどの例外は別として、歯噛《はが》みしながら怨《うら》みをのんで政界を去ってゆく。民主主義政治体制のもと、議員が足場をおいている立地条件は、それほどまでに厳しいのである。 何を尺度として優劣を判定すべきか[#「何を尺度として優劣を判定すべきか」はゴシック体]  それに対して選抜《エリート》官僚の地位はまさに磐石《ばんじやく》のごとく安泰である。ただし、話を進める必要上、ここで国家公務員の採用方式について説明しておかなければならない。  国家公務員には、二種類ある。その一つは、国家公務員採用I種試験に首尾よく合格し、しかるのち各省庁に採用された者である。この試験は、現在のわが国で施行されているすべての公式試験のうち、最も熾烈《しれつ》な競争が行なわれる最大の難関と見做《みな》されている。ちなみに、平成六年の合格者は全部で一六〇〇名であった。  このI種試験合格者だけが選抜《エリート》官僚となる。俗にキャリア組と称される。そしてI種試験より下位にあると認められている試験を経て採用された者はノンキャリアと呼ばれる。このノンキャリアはすべて金輪際、何があっても出世できないという運命を甘受しなければならない。すなわち、生涯、刻苦精励これ努めたところで、よほどの幸せに恵まれても、至りつきうるのは課長補佐どまりである。彼らの頭上には動かしようのない厚い鉄板が敷かれているのだ。  一方、キャリア組は颯爽《さつそう》とぐんぐん足早に出世してゆく。横光利一は小説『頭ならびに腹』の冒頭、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳《か》けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」と書いた。キャリア組は特急列車のように駆け上がってゆくのである。  とは言うものの、人間の能力にはどうしても優劣の差が生じる。これはどの領域にも見うけられる否定しがたい事実であろう。  だから、比較的に優秀と認められる人材が、衆に先んじた重責を担《にな》う結果となるのもやむをえない。誰も彼をも、つねに必ず一列に同等に処理せよなどと言うのは、人間社会の現実を無視した暴論であろう。  問題は、何を尺度として能力の優劣を判定するかという、評価の基準の設定が、妥当であるか否《いな》かということである。しかるにこの場合、キャリア組とノンキャリアとの決定的な格差は、I種試験に合格したかどうかというただその一点に発している。ただそれだけが終生の処遇を決定する。敗者復活戦の機会が、絶対に与えられていないのである。恐るべき冷酷な差別と言わねばならない。  しかしまた、人間の能力を判定するのに、いつかどこかで決まりをつけなければならぬのも、やむをえない措置《そち》であるだろう。まさか毎日毎日の一日ごとに全員の勤務評定を重ねるわけにはいかないから、そこに試験という制度が生まれる理由も納得できる。要は、試験の施行が公平であり、その結果が有効で能率的でありさえすればよいのである。つまるところ、I種試験の効能が、社会の運行にうまく寄与しているかどうかが問題の要点である。 人間の値打ちを決める最終的な要件[#「人間の値打ちを決める最終的な要件」はゴシック体]  いちおう歴史を遡《さかのぼ》るとするなら、高級官僚を試験制度で選抜するという案が初めて浮上したのは、隋《ずい》の煬帝《ようだい》の時分であるらしい。それがいろいろ紆余曲折を経て、科挙《かきよ》という形式に定まったのは、唐の太宗の計《はか》らいによってであろうか。それがしだいに欧州《ヨーロツパ》へも波及し、結局、現代、共産主義国を除く自由主義諸国では、国によって多少の違いはあるにせよ、幹部官僚の登用は試験によって行なわれるのが、ほぼ一般の常識となっている。  ところが昔の科挙にせよ、二十世紀の各国における現行の制度にせよ、そのすべてにわたって、何を試験しているのかと見るなら、結局それらは、必要な事柄をどれだけしっかり覚えているかという、つまり記憶力を検査しているにすぎないのである。遠い昔から今日只今の時代まで、記憶力に秀《ひい》でた者が優利な地位を占めるという仕組みはいっこうに変わっていないのだ。  まことに歎かわしいことなのだが、文明がこれだけ発達したにもかかわらず、われら人類は、人間の値打ちを見定める方法としては、その人の記憶力をためすべく、試験すること以外に、どのような有効な手立てをも、いまだになんら考え出してはいないのである。思えば何とも愚かしいことではなかろうか。  もちろん、記憶力において優れているという資質は、それ自体としては人間の尊重すべき能力の一つであることに間違いはない。しかし、念を押すまでもないことだが、記憶力が人間の知恵と直結しているとは限らないであろう。  記憶力に長《た》けている人物が必ず深い知恵を内に秘めているわけでないことは、人付き合いに多少の経験を積めば、誰にでもすぐ分かる。記憶力は人間のさまざまな能力を高めてゆく重要な経路ではあるだろうけれども、記憶力において傑出しているということそれ自体は、その人物が全知全能であるという判定の根拠にはならないのである。  私は、人間の値打ちを決める最終的な要件は、知恵、である、と信じている。  それなら、いうところの知恵、とは何か。それは、問題に直面して、間違った判断をしないことである。できるだけ正しい有効な判断をすることができる能力である。  では、判断力、とは何か。判断力とは、問題を解決できる方策を見い出す思考力である。  では、解決、とは何か。人間の世界における問題の解決とは、それに関係している多くの人びとを、最も喜ばしい状態へと導くような目途《めど》を立てようとする心構えである。  アガサ・クリスティに『そして誰もいなくなった』という表題の小説があることは周知であろう。それになぞらえて言うとするなら、そして誰もが不幸になった、というのでは、それは、解決ではなく、破綻《はたん》、である。そうではなくて、それとは逆に、そしてみんな幸せになった、というのが本当の解決である。  したがって、知恵、とは、本人をも含めて、できるだけ多くの人びとに、幸せをもたらせるように、あれこれ工夫することのできる、豊かな能力のことである。だからこそ、人を選抜するには、その人に知恵が備わっているかどうかを、判定の基準とせねばならぬこと、およそ自明の理ではないか。 知恵と悪知恵の分水嶺《ぶんすいれい》──倫理観《モラル》[#「知恵と悪知恵の分水嶺《ぶんすいれい》──倫理観《モラル》」はゴシック体]  ある人の知恵が警戒すべき悪知恵ではなく、つねによい方向に向いていることを保証するもの、それは、言うまでもなく、倫理観《モラル》である。道徳観念である。しゃっきりとした倫理観《モラル》に支えられていない知恵は、制御器《ブレーキ》のついていない自動車のように、暴走して周囲を破壊すること確実である。ゆえに、一人の人間を判断するには、その人が、豊かな倫理感覚、言い換えれば、道徳観念、その自制力に裏打ちされた知恵者であるかどうかを審査しなければならないのである。  さらに、それが公務員の場合ともなれば、そのうえに、義務感が強いかどうかを問う必要がある。なぜなら、一般の実務家《ビジネスマン》とは違って、公務員は、われわれ国民に対して、時によっては、何らかの強制力を発揮するからである。公務員には、場合によっては、強権が与えられている。彼らは特別な存在なのである。  たとえばトヨタ自動車の販売員《セールスマン》が、貴方が嫌だと首を振っているのに、高い商品を無理矢理に押売りすること、そんな無茶なことは金輪際ありえない。しかし、それとまったく反対に、時として公務員は、貴方が嫌だと抵抗しているのに、貴方の意に逆らって、債権の取立てを強制執行するであろう。彼らには、それをあえてやってのけることのできる権限が与えられているのだ。そこが、一般の実務家《ビジネスマン》と決定的に異なるところである。ゆえに、公務員には、公共に奉仕する強い義務感が要求されるのだ。  以上を、もう一度整理してみよう。公務員たるもの、何事にも無知であっては困るから、必要なことをしっかり覚えている記憶力が必要であろう。しかし単なる記憶力、それだけでは困る。世には全国にまたがるJRの各駅名をすべて諳《そら》んじている中学生もいるが、この記憶力抜群な子に政府の要職をまかせようとは誰も考えないであろう。  記憶力だけでは、その効果は海のものとも山のものとも分からないではないか。それが知恵という次元において結晶していなければならない。それも、せっかくの知恵が悪知恵という方向へ走らないよう、倫理観《モラル》の裏打ちが必要である。そして、公共に奉仕するという義務感によって考えられていなければならない。  記憶力、知恵、倫理観《モラル》、義務感、これらが揃っていなければならないのにもかかわらず、国家公務員採用I種試験は、その単なる第一段階にすぎないところの、記憶力だけを試験するに終わっているのである。  ゆえに、I種試験に合格したキャリア組は、記憶力に長《た》けているという鑑札を貰っているだけなのであって、知恵において優れているという保証は何もない。倫理観《モラル》において優れているという保証も何もない。義務感において優れているという保証も何もない。彼らは、知恵を審査されずに選抜《エリート》官僚となったのである。彼らは、倫理観《モラル》を審査されずに選抜《エリート》官僚となったのである。彼らは、義務感を審査されずに選抜《エリート》官僚となったのである。 選抜《エリート》官僚が責任を取らない理由[#「選抜《エリート》官僚が責任を取らない理由」はゴシック体]  ゆえに、キャリア組が一人前《いつちよまえ》の知恵者であるかどうかは謎《なぞ》である。キャリア組が強い倫理観《モラル》を持しているかどうかも謎である。キャリア組が公共に奉仕する義務感を抱《いだ》いているかどうかも謎である。要するに、彼らは、本来の資格なくして選抜《エリート》官僚となっているのだ。こういう連中のことを、古い言葉で、僭者《せんしや》、という。本来の正当な資格なくして高位に就《つ》いている者である。分《ぶん》を越えて奢《おご》り高ぶっている者である。分《ぶん》不相応な振舞いをなしている者である。  にもかかわらず、わが国の選抜《エリート》官僚は、自ら高く尊いと信じて傲然と嘯《うそぶ》き、天下を睥睨《へいげい》して驕慢《きようまん》にも反《そ》っくりかえっている。国民を見下《みくだ》し蔑《さげす》み監視している。国民はおしなべて愚かで、目先の見えぬ右往左往の輩《やから》であると思っている。国民は政治を考える頭を持たず経済の力学《メカニズム》を解しない迷妄の徒であると勝手に信じ込んでいる。それゆえ、衆に抜きんでて賢明な自分たちが指導してやらねばならないと思い上がっている。選抜《エリート》官僚は国民に轡《くつわ》をかませて鞭《むち》をあてる馭者《ぎよしや》のつもりでいるのである。  平成八年、住専を救済するかどうかの問題が起きたとき、村山|富市《とみいち》首相(当時)は「日本の金融秩序に対する内外の信頼を回復するため、また景気対策からもこれ以上先送りすれば傷口を大きくし、金融界の混乱を大きくする。ぎりぎりの苦渋の決断として、多額の公的資金を導入せざるをえない」と述べた。また、武村正義大蔵大臣(当時)は「国際的信用を回復させるために、避けて通れない道だった」と発言した。これらの会見発言は、大蔵官僚が事前に作成した文章を読み上げたものにすぎない。  しかるにその後、世論が沸騰《ふつとう》した結果、公費支出は実現していない。にもかかわらず、わが国の金融は破綻《はたん》せず国際的信用もとりたてて失墜していない。大蔵官僚の言い分が真っ赤な嘘であったことは明々白々である。彼らは、何もかも承知のうえで、国民を脅迫し恫喝《どうかつ》した。彼らは、自分がそういう極端な言葉を吐きさえすれば、何も知らぬ国民は恐れおののいて、自分の言うことに、はいはいと従うに違いないと高を括《くく》ったのである。  選抜《エリート》官僚は、単に尊大なだけなのではない。威張りかえっているだけなのではない。選抜《エリート》官僚は国民に嘘をつくのである。選抜《エリート》官僚は国民を瞞《だま》すのである。選抜《エリート》官僚は国民を欺《あざむ》くのである。選抜《エリート》官僚は国民を脅迫するのである。選抜《エリート》官僚は国民を恫喝するのである。  そして、そのうえ、嘘がばれても平然としている。嘘がばれても謝ろうとしない。嘘がばれても責任を取らない。嘘がばれても身を引かない。彼らの根性は鉄面皮そのものである。  なぜ、それだけ平然としておれるのか。そこには、これまた見逃しがたい強固な伝統が存在するのである。  従来から、わが国の官庁においては、次のように牢固《ろうこ》たる習慣が確立している。すなわち、ノンキャリア組が万一にも失策した場合は、容赦なくその責任が追及され、とどまるところを知らない。それに対して、キャリア組に属している選抜《エリート》メンバーの失敗は絶対に追及されることなく不問に付され、本人の履歴に傷がつくことなく、あいかわらずすいすいと出世してゆく。こういう構図が戦前からすでに出来上がっているのである。  こういうことになった理由はただ一つ、キャリア組のみによる強固な庇《かば》い合いの相互扶助である。つまり、自分が錯誤《ミス》を犯した場合にけっして責任を追及されることのないよう、先輩や仲間や後輩の錯誤《ミス》を揉み消して、錯誤《ミス》がなかったように取り繕《つくろ》うのである。この助け合い運動は陸軍と海軍と選抜《エリート》官僚界において戦前から見事に例外なく確立していた。その恐るべき実態については小室直樹著『これでも国家と呼べるのか』(クレスト社)に、まことに詳しく報告されている。 今こそ、I種試験を廃止せよ[#「今こそ、I種試験を廃止せよ」はゴシック体]  なぜ、こういう破廉恥な慣行が独占的に成立したのか。理由はまことに明らかである。陸軍大学校と海軍大学校と、そして戦前には高等文官試験と呼ばれていた現行の国家公務員採用I種試験と、これら三種の試験《テスト》に合格した者に、格別にして不可侵の絶対的な特権を認めたからである。  人間の情《じよう》は、置かれた条件によって左右される。人も羨《うらや》むむつかしい試験に合格した者が、自分は一般の国民よりはるか上位の優秀な知能を有する精神的貴族であると、自ら信じるようになるのは、まことにもって人情の自然であろうではないか。となれば、いったん獲得した自分の特権を失うことがないように、自衛のための必然的な方策として、貴族のみで固く団結してほかの者を寄せつけず、�成功の甘き香り�に酔いつづけたくなるのも、これまた、まことにごもっともな人情の自然である。  問題の根本は、実に簡単である。問題の根本は、特権階級をつくらないことである。すでにして陸軍大学校も海軍大学校もない。ただ一つ残るところは、国家公務員採用I種試験だけである。このI種試験を廃止すればよいのである。国家公務員の全員に、自由競争の機会を与えればよいのだ。  戦前のわが国には、厳然たる特権階級が存在した。すなわち、華族、である。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、この五つの序列から成るところの華族である。終戦と同時に、この華族制度が廃止された。しかるに、それに代《か》わって、戦後華族ともいうべき特権階級が成立した。すなわちI種試験に合格して、甚大なる特権を保持することになった戦後華族である。彼らが、自分たちは一般の国民より上位にあると、自己認定している意識状態において、両者は完全に共通している。  それでは、戦前華族と戦後華族とでは、どこがどう違うか。戦前華族は世襲であった。戦後華族は世襲ではない。そこは違う。だが、共通点もある。戦前華族は終身であった。戦後華族もまた終身である。この点においてはまったく同じである。いったんI種試験に合格しさえすれば、キャリア組という資格は完全に終身である。一度も再試験されることのないまま押し通し、天下りという破格の優遇を受ける。  原理原則に立ち戻って一からじっくり考えてみよう。民主主義を信条《モツトー》とする社会に、終身を約束された格別の特権階級が存在することがはたして妥当であるのだろうか。民主主義政治体制の象徴は選挙制度である。議員の任期には年限がある。年限あってこその民主主義である。I種試験が民主主義の原則に背《そむ》く異例であること自明であろう。  現在のわが国は選抜《エリート》官僚の支配下にある。この超越的な支配階級の絶大な権限を剥奪《はくだつ》しなければ、民主主義の政治は円滑に進展しないであろう。  わが国を現に支配している選抜《エリート》官僚が、人間としての円満な良識と知恵を備えているという保証はない。倫理観《モラル》に支えられているという保証はない。公共に奉仕する義務感を持っているという保証はない。わが国の選抜《エリート》官僚は、I種試験という特権の屋根の上に乗って、それが自分の才覚のゆえであると自惚《うぬぼ》れながら、国民を見下《みくだ》している貧相な子山羊《こやぎ》にすぎないのである。 [#改ページ] (2)最も上手な生き方のすすめ──『論語』   ──名著『論語の新研究』が明らかにした新事実 宮崎市定《みやざきいちさだ》の『論語の新研究」が名著である理由[#「宮崎市定《みやざきいちさだ》の『論語の新研究」が名著である理由」はゴシック体]  古典の現代語訳というものは、まことに至難のワザである。ここで述べる『論語』にしても、それにふさわしい現代語訳が久しくなかった。現在出版されている各文庫には、多くの碩学《せきがく》の現代語訳があるが、肝心かなめの訳文にメリハリがない。吉川幸次郎《よしかわこうじろう》であれ、貝塚茂樹《かいづかしげき》であれ、金谷治《かなやおさむ》であれ、全部これを欠いていた。つまり読んでおもしろくない。文章として、訳文自体が独自に私たちの胸を打つ、という迫力がなかった。  そこへ昭和四十九年になってついに出現したのが、宮崎市定《みやざきいちさだ》の『論語の新研究』(岩波書店)である。私は、これで初めて現代人の心臓の鼓動に合う、現代語訳の『論語』が出てきたと心が躍った。  この本は、一部と二部に分かれており、第一部は、ひじょうに高度な文献学をきわめて平易に説いたものである。だから、文献学的な論証の好きな者には、手足が震えるぐらいおもしろい。ただし、多少その道の蓄積がないと、そのおもしろさを充分味わうことはむつかしい。  第二部。これはまた恐るべきもので、くだくだとしたことを言わず、原文、その読み下《くだ》し文、そしてその現代語訳、それだけで構成されている。大抵の研究者は、現代語訳だけではどうしても内容、エッセンスを封入できないものだから、自分でも物足りなくて、後ろにガタガタと、その注釈をつけたがる。それを宮崎市定は、何ヵ所か例外中の例外はあっても、原則として外《はず》してしまった。しかも、これを読めば古典とはこんなにおもしろいものか、また古典の素晴らしい訳文というものが、なるほど稀有《けう》な業績だということが実感できる。けだし名著である。  宮崎市定という人は京大文学部歴史学科の主任教授だったが、学界では自分から志願してのはぐれ者、一匹狼だったため、東大|支那《シナ》学閥、京大支那学閥、その他もろもろの学閥のどこにも属していない。そのため、この本が出版されても、ほとんど書評がなされなかった。残念なことに、いまだにこれが恐るべき本であるということを、声を大にして言う人間は、おそらく私ぐらいしかいない。たいへん惜しいことである。 本物の学者・卑《いや》しい学者[#「本物の学者・卑《いや》しい学者」はゴシック体]  第一部は歴史編と考証編だが、一般の読者はこれを飛ばして読んで差し障《さわ》りがない。ただし、一つだけ、ひじょうに興味のある一節を紹介しておきたい。その七三ページに、これまでの論語の研究がどういうふうになされてきたかという興味津々《きようみしんしん》の概括《がいかつ》がある。その中で、宮崎さんが中国の清《しん》の時代の江藩《こうはん》という人物が著《あらわ》した『経解《けいかい》入門』という本に触れた個所がある。 「(この本の題名は)初学に対する入門という名であるが、実は入門者に必要な範囲を超えて、著者自身の博識を誇るための本である。それだけならよいが、更《さら》に第三の目的として、浅学者を恫喝《どうかつ》する意図があったと思われる。旧中国においてはいつもこうした先輩の教師が、後世《こうせい》を威圧して、その自由研究の意志を萎縮させるに懸命であったのである」  これは何も清朝に限らず、世界の学問史、あるいは現代でもよくあることで、学問的な書物が好きな人は、一度ここのところを読んで、精神をリラックスさせるとよい。後輩に対する江藩先生のご丁寧《ていねい》な忠告は、 「新奇を尚《たつと》ぶな、妄《みだ》りに古訓を詆《そし》るな、妄りに経文《けいぶん》を改めてはならぬぞ、学問の道は広く深くて、とてもお前たち若造が口出しのできる場所ではないのだぞ」というものである。  そして、こうしてはいかん、ああしてはいかんという、現在では噴飯《ふんぱん》もののことが書いてある。それを宮崎さんは一発でつぶす。つまり、あらゆる学問の世界に、あるいは学術的な装《よそお》いをしている本の世界に、必ずそういう人間はいるもので、その根性のいやらしさを瞬時にして見抜くべきであると説く。しかし、同時にみんながみんなそうではないのであって、素直な性質の学者の研究とか文章を、自分のカンで見抜かなくてはいけない。そして、その弁別力はあらゆる現代語訳、注釈書に接する場合の、はたまた読書の根本である、と私は思う。  では、『論語』には、どういうことが書いてあるのか。『論語の新研究』の第二部の現代語訳に沿《そ》って述べていきたい。 『論語』が説く「信」とは何か[#「『論語』が説く「信」とは何か」はゴシック体]  まず、三十八章の現代語訳から読んでみよう。 「子|曰《いわ》く、人間がもし信用をなくせば、どこにも使いみちがなくなる。馬車に轅《ながえ》がなく、大八車に梶棒《かじぼう》がないようなもので、ひっぱって行きようがない」  これだけ読めば、たいへん分かり切ったことのようだが、この原文(書下し文)は、 「子曰く、人にして信なくば、其の可《か》なるを知らざるなり。大車に|※[#「車+兒」、unicode8f17]《げい》なく、小車に|※[#「車+兀」、unicode8ecf]《げつ》なくんば、それ何を以《もつ》て之《これ》を行《や》らんや」  この原文だけをいくら読み返してみても、私には宮崎市定のような訳文は出てこない。これは、原文の本当に言わんとするところ、一つひとつの言葉の指し示しているものを、よほど強い気迫でよくよく考えたからに違いなく、まことに見事なものすごい現代語訳だと言わざるをえない。  まず、「信」という言葉を、信用があるかないかということだと訳したのも、なかなかできることではない。というのも、古典学者の中には、この「信」を、人間の心構えのこと、つまり人間の内部のことと訳したがる習慣が支配的だったからである。しかし、後述するように、『論語』はどんな場合でも、人間を人間関係の中に置いて論じている。だから、ここで「信」というのも人間関係と受け取るのが最も自然である。さらに�使いみちがなくなる�というのも、社会的効用という観点に立った言葉以外のなにものでもない。  しかし、何といっても宮崎市定の訳のすごいのは、「行《や》る」を「ひっぱって行く」とした点だろう。「行《や》る」という言葉はたしかにそういう意味があるが、ここにおける「車を行《や》る」というのを「動かす」でもなく「曳《ひ》く」でもなく「ひっぱって行く」ことだという訳文の出し方は、たいしたものである。 『論語』全体の精神は、個人の人間性というものを自分自身でどのように鍛《きた》えるかとか、錬磨するかとかいうことだが、大切なことは、その人間を社会から切り離して、つまり、対人関係から抽象した一個人の人間として考えるようなことは、けっしてないという点にある。さらに、人間改造ということも、絶対に考えていない。要するに、人間というものには、持って生まれた人間性があり、人情の自然がある。そして、その人情の自然の中で、許す限りの成長ということを孔子《こうし》は考えている。  だが、現実の人間社会に生きている、もろもろの人間たちには、これこれしかじかの欠点、悪徳、不足を持っているから、ここをこう矯《た》めて、あそこをこう削って、そして理想的な人間にしなければならないなどという、人間性から飛躍した考え方、また、それを要求する考え方は、『論語』には、いっさい語られていない。  だから「人にして信なくんば」というのも、結局、「人間がもし信用をなくせば」ということである。また、少なくともそういう観点から読んでいくと、『論語』の論理というものが一貫して読み取れるわけである。 日常の些事《さじ》にこそ、人間性が現われる[#「日常の些事《さじ》にこそ、人間性が現われる」はゴシック体]  たとえば、それに関係する十三章。 「有子《ゆうし》曰く、朋友《ほうゆう》との付き合いにおいては、正義を外れなければ、その言葉は信用できる。目上の者に対しては、礼儀を外れなければ、恥辱を与えられることがない。因循《いんじゆん》と見られようとも、古くからの交際を絶たないでいるのは、また賞《ほ》められる価値がある」  これも人間が信用をつなぐ、あるいは信用をつくる、あるいはそれを保つということを、人間の上下関係、あるいはその人間の時間的な流れに置き換えて言っているわけである。しかも、人間と人間との微妙な接点というものも、ちょっとした気持ちの転換によって、さほど無理をせず、充分に処理しうると教えている。 「古くからの交際を絶たないでいるのは、また賞《ほ》められる価値がある」──これも、古くからの交際を全部|煩《わずら》わしく引っ張っていけということではけっしてない。これは、交際が長続きしたことのない人間を思い浮かべればすぐ分かる。  たとえば、ひじょうに才能があって、何か仕事があるとバリバリ能力を発揮する、どうもこの人は何かを成しうる人だと思われるのに、いつも不遇だという人物が、どこの世界にもいる。そういう才能があるのに不遇な人は、もちろん不平満々なわけだが、そういう人をじっと見ていると、だいたいにおいて親友というものがいない。孔子は、それを目上の者というふうに言い換えているわけだが、つまりは、人間関係の調整法と考えてよい。さらに、それを別の言い方にしたのが、八章の有名な言葉ということになる。 「子曰く、君子重からざれば威あらず、学べば固《こ》ならず。忠信を主とし、己《おのれ》に如《し》かざる者を友とするなかれ。過《あやま》ちては改むるに憚《はば》かること勿《なか》れ」  最後の文句はあまりにも有名だが、宮崎論語ではこう訳されている。 「子曰く、諸君は態度がおっちょこちょいであってはならない。人に軽侮《けいぶ》されるからだ。学問をして、片意地にならぬことを身につけるがよい。友達には誠心誠意で付き合い、そうすることに相応《ふさわ》しくない者とは友達にならぬがよい。過失はあっさりあやまるべきだ」  つまり、先記した「古くからの交際を絶たないでいるのは、また賞められる価値がある」という言葉に対応させて、|ただし《ヽヽヽ》、「己に如《し》かざる者を友とするなかれ」と言う。言われてみれば、誰もが知っていることで、当然のことだが、実はいちばん忘れやすいことでもある。  さらに、「己に如かざる者を友とするなかれ」を理解するうえで重要なのは、これが人間にとって、人生にとって、ひじょうに大きな、あるいは第一義的なものであるという観点だろう。ところが、現在、そういった感覚を持たないで生きている人があまりにも多い。それどころか、親友なんて持つ必要がないとか、むしろ持たないほうがいいという風潮さえ根強い。これは、日常の身近な出来事に重きを置かないという生き方だが、文化的教養に憧《あこが》れる人間ほど、身近な些事《さじ》をおろそかにする傾向があり、この一文はそういったメンタリティーの人間に対する痛棒でもある。 人間の才能や価値は、けっして等しくはない[#「人間の才能や価値は、けっして等しくはない」はゴシック体]  さらに、私がたいへん好きな六十九章を読んでみたい。 「子曰く、好むべき人を好み、悪《にく》むべき人を悪むことができたなら、それは最高の人格者と言える」 「子曰く、惟《た》だ仁者のみ、能《よ》く人を好み、能く人を悪《にく》む」  これは、見せかけだけの似非《えせ》ヒューマニズムのお説教に対する、たいへんきつい反駁《はんばく》である。私自身、若い時にはこういう言葉の恐ろしさは分からなかった。しかし、今にして思えば「好むべき人を好み、悪《にく》むべき人を悪む」という両方が、�なるほどあの人ならそうだろうな�と思わせるような自然さをもって実行され、その二つの要素のどちらにウエートがかかっているともなく共存しているというのは、人間の生き方として、まさに信頼に値するものじゃないかと感銘が深いものである。  世の中には、何かベタベタした交際好きというタイプの人間がいる。また戦後の日本社会は、いかなる人をも憎んではならないという建て前になっている。しかし、いかに所得や教育の水準が高まり、かつ平準化しようと、人間の価値というものはそんなに平準化するはずはない。にもかかわらず、本来、価値低きはずの人まで価値低しと見定めてはならない、という暗黙の社会常識が戦後社会にはびこりすぎた。「好むべき人を好み、悪むべき人を悪む」という孔子の言葉に接するに当たり、われわれはこれを、そうした風潮に対して考え方を原点に戻せということだ、と解釈すべきではないだろうか。  人間というのは、いろいろな分野でそれぞれ才能や価値が異なり、それぞれの分野でピンからキリまでの段階がある。その中で�悪むべき人�、�はっきり退《しりぞ》けなければならない人間�というのは必ずいる。そして、そういう者にけじめをつけない、本当に誠心誠意憎むということを知らない、あるいははっきりと決断力を持って排斥することを知らない人間に、人間社会のさまざまな問題を解決し、事を有効に前へ進めていく能力があると、期待することができるだろうか。あるいは、誰をも憎まず、誰にも正当な批判の眼《まなこ》を向けないという人間を、われわれは、本当に信用することができるだろうか。 人間は区別されるべき存在である[#「人間は区別されるべき存在である」はゴシック体]  さらに七十二章に、 「子曰く、善行を好み、不道徳を憎むことのできる人間は至って少ないものだ。善行を好む者はそれだけで申し分がない。不道徳を憎むのは、そのまま一種の善行といえる。少なくとも不道徳者から影響を蒙《こうむ》ることがないからだ。一日でもいいから思いたって善行に心がけて貰いたいものだ。やって見たが自分の力が足りませんでしたなどとは言わせない。そういう人間がないとは限るまいが、私の目で見た限りは一人もなかった」 「子曰く、我は未《いま》だ仁《じん》を好む者、不仁《ふじん》を悪《にく》む者を見ず。仁を好む者は以て之《これ》に尚《くわ》うるなし。不仁を悪む者は、其《そ》れ仁たるなり。不仁者をして其の身に加えしめざればなり。能《よ》く一日も其の力を仁に用うるあらんか。我は未だ力の足らざる者を見ず。蓋《けだ》しこれあらんか、我は未だこれを見ざるなり」  つまり、孔子は、人間を区別して接していけということを、手を変え品を変え、説いている。これは、遠い先のSF的な未来は知らず、過去、現在を通じて、やはり人間社会の鉄則ではないだろうか。それは『論語』がこれだけ長い間、多くの人に読み継がれ、多くの人の心の糧《かて》になってきたことでも明らかだろう。  人間をその性《さが》に従い、その値打ちに従って区別し、仁者、善行を好む者、あるいは道徳的とまで言わなくても、人柄のよい者と、人柄はいまだ至らずであるが、仲間に加えるに値する者、そして現状においては、つまり自分から見て、とうてい度しがたいと思われる者というように、いろいろな差があるのだという認識を、『論語』は強烈に打ち出している。しかも、これを現実認識として誤っていると反駁《はんばく》できる、いかなる根拠も存在しないのである。  ところが、「そう考えてはいけませんのよ」という一種の似非《えせ》ヒューマニズムが戦後の日本社会を支配した。そういう一連の、生《なま》あたたかく、すえたような風が何の根拠もなく蔓延《まんえん》したために、『論語』は何か沈んでしまったような観があった。しかし、『論語』は抽象的な、つまり誰に対しても応用できるような、そんな普遍的な人間交際法など、まるですすめていないのである。 生きるのが上手《うま》くなるための英知のすすめ[#「生きるのが上手《うま》くなるための英知のすすめ」はゴシック体]  ほかに引用していけばキリがないが、全体の発想の根源という観点から、次に七十八章を挙《あ》げておきたい。 「子曰く、見さかいもなく利益を追求すれば、方々から怨《うら》まれる」 「子曰く、利を放《ほし》いままにして行《おこな》えば、怨みを多くす」  これは、『論語』の立場を実に明確に示した一文である。  つまり、「目先の利益しか眼中にないと他人《ひと》の怨みを買い、長い目で見ると結局損をしますよ」ということは、逆に言えば「この世の中において、『論語』がすすめている徳目を自ら行なった場合、結局あなたは得しますよ」と、孔子は言っていることになる。  要するに、『論語』全二十巻が指し示しているのは、人間の悪徳を正して、素晴らしい人間に生き返らせることを望む立場なんかではないのである。そんなことは一言も言わない。その示すところは、人間社会に生きていくうえで、いろいろな考え方があるだろうが、最終的には、こうしたほうがお得になりますよ、という人間の生き方における最も有利な道のすすめなのである。  つまり、修養、悟《さと》りの世界とは無縁なのである。すなわち、宗教ではないのである。 『論語』を読み進めていくと、孔子が悟りとか、大悟一番とか、そういうことを絶対に信用していないことがよく分かる。ある時期に人間がポーンと飛躍するという考え方は、おそらく孔子の時代以前にもあったはずだが、彼はそれをいっさい黙殺している。ここが仏教的な救済思想と決定的に対立するところで、孔子は、悟りなんかありえない、悟りというのは悟った振りをする技術のことだ、と考えていたようである。  人間の生き方にとって、何が最終的に利益となるか、それについて手を変え品を変え、説得する。それでは、人間が生を享《う》けて、死ぬまでの間の最終的な損得、物質とかお金とかそういう次元をも含めて、すべてを統轄《とうかつ》したいちばん得な生き方とは何か。  これを十六章で、孔子は、こう言っている。 「子曰く、人が自分を知らないことは困ったことではない。自分が人を知らないことこそ困ったことなのだ」 「子曰く、人の己《おのれ》を知らざるを患《うれ》えず、人を知らざるを患うるなり」  そんなこと言ってもらっては困る、自分の値打ちが認められないことを「患《うれ》えず」などというのは「諦《あきら》めの哲学」ではないか、という反駁《はんばく》も当然生じることだろう。それは人間的な情念として、まことにもっともなのであって、それはそれで結構だろう。しかし、そう思ってずうっと生きつづけた場合の利害損得を、人間の一生というロングレンジで、総合的な計算をした場合にどうかということを、孔子は、この十六章で明示しているのである。 「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」[#「「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」」はゴシック体]  なぜ、これが「得」になるかというと、それは二十六章を読めば明らかとなる。 「子曰く、人間はその行《おこな》っていることを注視し、その由来するところを看取し、その安心している所を察知すれば、その性質は匿《かく》そうたって匿しおおせるものではない。心の底まで見抜けるものだ」 「子曰く、其の以てする所を視《み》、其の由《よ》る所を観《み》、其の安んずる所を察《さつ》すれば、人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや、人焉んぞ※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]さんや」  これを渡部昇一《わたなべしよういち》は、まことに興味深い名著『日本そして日本人』(ノン・ブック、祥伝社)で、農耕社会という固定され、ひじょうに限定された社会、いわば生まれてからずっと、あるいは親の代、じいさんの代から、お互いにみんな見聞きしている社会、そういう社会の文化伝統から出てきた発想である、というふうに説く。私も、この孔子のイデーが出てきた、時代的、あるいは社会的環境条件は、まさにそうであったろうと思う。ただし、ここで注意してもらいたいことは、それだけにとどまらないという点だ。つまり、ある限定された条件の中から発生したものの考え方、すなわち、その条件のエキスであるイデーというものは、社会的条件が変化しても生き延び、適応性を持ちうるのである。だから、この二十六章も、形態としては農耕社会を脱し、近代工業社会となった社会、たとえば現在の日本にも、そのまま通用するわけである。  なぜなら、「行《おこな》っていることを注視し、その由来するところを看取し、その安心しているところを察知すれば」という前提が、はっきりつけてあるからだ。換言すれば、最小限の機関、いわば小社会、小集団の中における人間関係というものを、孔子は大前提としているわけである。したがって、行なっていることを注視したり、安心していることを察知できないほど、あわただしく人が入れ替わるような人間関係の下では、このイデーは通用しないことになる。  しかし、われわれが想像できないようなはるか遠くの未来を別にすれば、そこまで恒常《こうじよう》的な人間関係を持てないような社会状況というものは、この地球上にはまず存在しないのではなかろうか。つまり、いかに高度に発展した現代社会であっても、結局、人間というものは、見る目(手段・方法)を持っており、こうした観点から注視すれば、人間の正邪を、結局は見抜くことができるに違いないのである。  ただし、これは『論語』全巻を通じて言えることだが、孔子はそこに書かれている「得をする方法」が誰にでも簡単にできることだと言っているわけではない。この点、くれぐれも忘れないでもらいたい。たとえば、地球上の人間がすべて「焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」と他人を見抜く能力があると言っているのではない。ただ人間観察の欲求を持ち、多少の人生経験を持ち、あるいは熟練した人間にとっては、やはり落ち着くところはこれしかないだろう、と主張しているのである。  同時に、これを逆に言うと「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」という事情が、最終的には人間関係を貫いているのだから、そのことに対する信頼を持てということにもなる。ほとんどすべての人間は、多少とも「自分は充分には認められていない」といった感慨を持っているものだが、とりわけ「自分は認められていない」と強く思う者は、まず、自分を認めてくれる人はどういう人であろうか、と考える必要があるだろう。そして次に、自分の何か隠されているものを、「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」というふうに、外側から温顔を以《もつ》て見抜いてくれるような人間は、その見抜き方をどんな観点で行なうのか、ということを真剣に考えるべきではないだろうか。その際、この世には「そういうあなたの本質や取り柄を見抜いてくれる人が、必ずいるんだぞ」ということを、孔子は保証してくれているわけである。  さらにもう一度引っくり返して言うと、「自分は認められていない」と思う者は、自分をそういうふうに認めてくれるような感受性、ものの考え方、評価軸を持った人物像というものを、こちらから逆算し、探し出すべきなのだ。しかも、そういう人物の目に止まる場所へ、自分を可能な限り仕向けていく恒常的な努力が、いちばん得な生き方なのだ。これがまた「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」に込められた孔子の真意でもある。 「知る」より「好む」、「好む」より「楽しむ」[#「「知る」より「好む」、「好む」より「楽しむ」」はゴシック体]  こうした考え方は、百三十七章からも読み取ることができる。 「子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ちこんで楽しむことの深さに及ばない」 「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如《し》かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」  つまり「これを楽しむ者に如かず」であって、楽しむものが現在自分にある人間は、自分自身の幸せを、それこそ天に感謝すべきなのである。ところがこう言うと、「何を勝手なことを言うか、本当に全身を打ち込んで楽しんだり、好きになれるものがあるのに、周りの環境や社会が悪いため、自分にそれが与えられない。それどころか、自分がそれに近づくことをさえ妨げられている」という反発を感じる人が、戦後世代にはとくに多い。  また、自分には本当に楽しめるものがあると自認している人でも、心のすみのほうでは、環境や条件がもうちょっと何とかならないものかと思うわけで、これも人間性の自然だろう。だからこの百三十七章を聞いて、「あ、そうですか、明日から私もそうしましょう」というわけにはいかない。人間というものはそれほど簡単な生き物ではなく、同時に、孔子もそんなに簡単に人間を信用しているわけではない。  だから、これも「実人生でいろいろやり、いろいろ感じてみて、最終的に到《いた》り着くところのものは、こうではないかね」という観点からの言葉だと受け取るべきなのである。  余談になるが、小林秀雄が中原中也の愛人だった長谷川|泰子《やすこ》という女性を口説いたときのセリフが、この百三十七章とひじょうに似ていておもしろい。小林は、その女性に自分の思いの丈《たけ》を打ち明けたとき、「中原とキミは思想が合うんだよね。おれとキミとは感覚が合うんだ。だから、おれと一緒に暮らさないか」といった表現を使ったと、長谷川泰子は告白している。小林秀雄がその時『論語』を意識していたかどうか分からないが、その女性は、結果的に、やはり「思想」より「感覚」のほうを選んだのである。  このように、二重、三重に『論語』を読み込んでいくと、結局、人間関係は、人間がほかの人間を観察することによってしか成立しえず、また評価することもできないことが分かってくる。そしてその観察が、何を判断基準として行なわれるかというと、相手を信頼するに足《た》る人物と見るかどうか、という一点にかかってくるわけである。人間には、それ以外にもいろいろな能力があるが、万人に通用する最後の決め手は、この「信」ということになるのである。 気持ちは行動で示してこそ価値がある[#「気持ちは行動で示してこそ価値がある」はゴシック体]  ここで、『論語』で最も多く語られている「仁」という最重要なキャッチフレーズについて、本書ではあえて言及しないことを断わっておきたい。なぜなら、私は一生かかっても仁者と言えるようなところへ行けるわけがないからだ。  もちろん、行ける人は行っていただいて結構だが、私自身は、自分にとって不可能だと思われることに心を煩《わずら》わせるよりは、自分にもできそうなこと、実践できそうなことに一生懸命取り組み、いわば、平凡に生きてゆきたい。そういう理由で「仁」という一つのカテゴリーをもって『論語』を解読するという、最も古典的、決定的な方法を私はあえて避けてきた。つまり、なにも聖人君子といった第一流の、というより背伸びした読み方をしなくとも、私ども凡俗の人間には、それなりの、もう少し下へ下がった読み取り方があるはずで、私の場合は、若い頃から「信」という一字を頼りに『論語』を読んできたわけである。  すでに述べたように、「信」とは信用、自分自身が他者からどう評価され、どう信用されるか、ということである。『論語』は、全巻を通じて、人間の奥底の内心というものをけっして問題にしていない。すべて他者が自分をどう判断するか、という問題であり、これは人間性に対する、恐るべき洞察だと思う。  いろいろな修養書、宗教書、あるいはモラリストの言葉が陥《おちい》る最大の危険性は、透視することのできない人間の気持ち、精神の持ち方、その純粋なる奥底に対して、このように考えよ、あのようにせよと説くことにある。しかし『論語』は、誰の目にも見えず、どんなことをしても確かめようもないことについては、いっさい語ろうとしない。そして、もしお前さんの気持ちに確かなもの、清らかなもの、凜々《りり》しいもの、立派なものがあるならば、それを外に表わせと言う。人間性の本質とは何か、あるいは世間とは何であるか、そういうことを孔子は絶対に言わない。  人間は必ず「外」から見られており、そのため人間にとって「外」はきわめて大事である。それを孔子は「礼」という一語で表現する。そして、その「礼」とは、けっして杓子定規《しやくしじようぎ》な礼儀作法自体をいうのではなく、スタイル、あるいは所作《しよさ》、立居振舞いでしかない。  孔子がある宮廷へ初めて参上した時に、「ここでどう振舞ったらいいのか」と右に聞き、左に聞き、この問題を順番に聞いていったという話がある。それを見ていた人物が、「あいつは人の師匠として、礼(儀式の礼)を教える立場なのに何も知らんではないか」と非難した。ところが孔子は、それを「ここではどうなっているのかを、私は知りたいだけだ」という一言で片づけた。  これは、どれだけ人間社会が近代化しても変わりようがない真実だろう。なぜなら、そこでの所作《しよさ》振舞い、そこのスタイル、そこの儀礼の方式というものを生み出し、支えているのは、そこの人間の人情なのだからである。要するに孔子のいう「礼」とは、そこの人間の人情に従えということなのである。  繰り返すが、孔子は外面に表われないもの、すなわち、抽象的なものとしての人間の内面をまるで問題にしていない。だからこそ、外面に表われる「礼」を尊べと言う。腹の中で「おのれ、くそったれ」と思っていてもいいのである。  だが、ここが人間社会の皮肉なところであり、おもしろいところなのだが、「人|焉《いずく》んぞ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》さんや」であって、「おのれ、くそったれ」と思いながら、上《うわ》べだけ取り繕《つくろ》ったのでは、絶対に見透かされてしまうのが、この世の中だとも説くのである。 なぜ、孔子は形而上《けいじじよう》学・進化論を排除したのか[#「なぜ、孔子は形而上《けいじじよう》学・進化論を排除したのか」はゴシック体]  そして、次に挙《あ》げる百四章のような言葉が、弟子の口から語られる。 「子貢《しこう》曰く、先生の生活の哲学は、これまでいつも教えを受けてきたが、先生の性命論と宇宙論とは、ついぞ伺《うかが》ったことがない」 「子貢曰く、夫子《ふうし》の文章は得て聞くべきなり。夫子の性《さが》と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり」  つまり形而上《けいじじよう》学はやらない。孔子の考え、『論語』には、形而上学はない。人間というのは必ずある所の、ある時代に生まれ、いつか死ぬ。『論語』は、その短い間に、その条件の下でどう対応するかという、地に足のついた対策を説いた書である。そこには、近年|流行《はや》りの、こう考えるべきだという理念や、かくあるべき、かくなすべきだという、いわば「当為《とうい》の法則」というものはまったくない。  もう一つ、『論語』を読むうえで重要な観点は、進化論がないということである。社会がいろいろな社会形態を順番に破壊して進化していく、あるいは人間というものがどんどん立派なものになっていく、といった進化論的思想が、絶無なのである。  ところで、この進化論的思想は、人間をきわめて危険な発想へと誘惑しやすい。つまり進化論とは、次の新しい段階を想定し、それへの駆《か》けっこをやるようなもので、えてして遅れている者を引っ張ったり、極端な場合は、そういった者をすべて湮滅《いんめつ》するような力が働きやすい発想である。だから孔子は、そういった進化論的発想を絶対に持とうとはしなかった。だから、普通の人間にできないこと、絶対に無理なことは掲《かか》げないのである。  たしかに儒教は、漢代になって哲学風になったり、宗教風になったりする。しかし、それはのちの話であって、あとから『論語』についてのどんな名論・卓説があろうと、それは『論語』の読者にとって何の関係もない。『論語』はいわば人生のハウツーを書いた実用書だから、読者にとっては、そこから類推された哲学、宗教的思想などどうでもいいわけで、大事なのは、実人生にそれが役立つかどうかだけなのである。  つまり『論語』を読む前に心しておくべきことは、そこには進化論もなく、哲学もなく、宗教もなく、理念もなく、イデオロギーもないということだ。要するに『論語』は形而上《けいじじよう》学ではないのである。 卑俗に徹したがゆえに永遠に輝く[#「卑俗に徹したがゆえに永遠に輝く」はゴシック体]  形而上学というのは、無理なことを言おうとするから必要になるのであって、無理でないことなら、普通の常識的な人間の考えうる範囲、つまり限定されたイメージの範囲だけで充分である。それを形而上学にするには、人間を地上から一度引きずり出して、宇宙の真ん中に漂わせなければならない。  要するに、人間を広大な論理展開の世界に引っ張っていくには、地上から体を引き上げてしまうための起重機やロケットの推進力が必要で、その引っ張り上げるメカニズムが形而上学なのだ。だから形而上学のシステムというのは、私は麻薬だと考えている。つまり、麻薬を打てば、麻薬を打っていない人間の脳裡にはとうてい浮かばないような幻想が生じるが、これはちょうど、ロケットで地球の引力圏から脱出する宇宙飛行士のような存在に自分をなぞらえてみる「幻想の遊戯」にすぎない。  現代では、そういったものでないと自分は感動しない、という人も多い。だから、そういう人びとにとって孔子はあまりに卑俗だと言えるかもしれない。また、卑俗なものは捨ててしまいたい、卑俗から脱走したい、この現実の卑俗な世界から、自分は別の次元へ移りたいと思う人にとって、あるいは『論語』は必要でないかもしれない。  しかし、その要望は観念の世界においてだけであり、そう思っている人も、実は、卑俗な世界に住んでいる。孔子はその卑俗な世界のいちばんの底辺を狙った。これこそ、『論語』が時の試練に耐え、古典として生き残ってきた最大の理由だと言えよう。 『論語』が、いかに形而上学と性質を異にするかの例として、百二十七章を挙《あ》げておきたい。 「伯牛《はくぎゆう》が重病にかかった。孔子が見舞いに行ったが、(伝染を慮《おもんぱか》って)窓から手をさしのべて堅く長い握手をして帰った。曰く、もう駄目か。なんという運命だ。こんな立派な人がこんな病気とは。こんな立派な人がこんな病気にかかるとは」 「伯牛《はくぎゆう》、疾《しつ》あり。子これを問《と》い、|※[#「片+(戸<甫)」、unicode7256]《まど》よりその手を執《と》る。曰く、之《これ》を亡《うしな》わん。命《めい》なるかな。斯《こ》の人にして斯の疾《しつ》あり。斯の人にして斯の疾あらんとは」 『論語』は運というものを、はっきり人間観察の中に取り込んでいる。「命《めい》なるかな」ということを認めるのは、生活哲学の極意《ごくい》であり、あらゆる普遍を意図する形而上学が、これだけは絶対に認めないことである。  人間が、自分の持ち合わせている論理の及びがたいものに接した場合、採《と》りうる態度は二つに大別される。一つは、何だか分からないが、人知の及ばざる何かがあることは認めざるをえないという態度。もう一方は、それを偶然性といった言葉に置き換え、本来それはありえないものだと考えて、理屈のうえで無視するという形而上学的な捉《とら》え方である。  孔子は徹底して前者の立場を採る。つまり、人間の理性や論理の及びがたいものが、この人間世界には厳としてあることを認める。最後には、それは「運」だと思ってあきらめざるをえないものが、この世には充ち満ちており、自分もいつそれと関わりを持つかもしれない。そして、そういう条件の中で、われわれは生きることを許されているのではないか。孔子はこういう考えをそれほど強調しては言わないが、今|挙《あ》げたような事例をもって私たちに語りかけるのである。 「思って学ばざる」──現代日本人の悲劇[#「「思って学ばざる」──現代日本人の悲劇」はゴシック体]  最後に『論語』を読むにしろ、学問をするにしろ、また何かものを学ぶといううえで、これほど大切なことはない、という名句である三十一章を挙げておきたい。 「子曰く、教わるばかりで自ら思索しなければ独創がない。自分で考案するだけで教えを仰ぐことをしなければ大きな陥《おと》し穴にはまる」 「子曰く、学んで思《おも》わざれば罔《くら》し。思《おも》って学ばざれば殆《あやう》し」  この現代語訳も見事だが、さすがの宮崎市定も、ここにだけは注をつけている。 「この言葉は教育、研究の妙諦《みようてい》を言いあてたもので、千古に通ずる真理である。教育とは要するに全人類が進化してきた現在の水準まで、後世《こうせい》を引き上げてやる手伝いをすることである。言いかえれば個体が系統発生を繰り返すに助力することである。もしこういう助手の存在意義を軽視して、全く独自の力でやろうとすれば、大きな時間と精力のロスに陥る危険がある。  むかしある農村の青年が非常《ひじよう》に算術が好きで、小学校を終えたあと、農業に従事しながら十年かかって数学上の大発見をしたと、町の中学の教諭に報告してきた。何とそれは二次方程式の解き方であった。中学へ入って習えば一時間ですむことなのだ。独力でそれを発明する力をもっと有効に他に使えば本当に有益な研究ができたかもしれない」  この青年の話は前にも触れたが、宮崎市定がこの簡潔な『論語』の口語訳の中で、こういう長広舌をぶつのは珍しい。ほかにも、例外的に二行ほど注をつけているところもあるが、それはたいてい言葉の問題か、どうしても解釈上必要と思われるところでしかない。過去にこう言われていたが、それは違っており、こう読むのが正しいといった部分である。  しかし、この章は、著者もよほど思うところがあったのだろう。私は、戦後、日本人は周《まわ》りの人間に、あまりにも、ものを聞かなくなったことを危険に思う。これは全日本人の通弊《つうへい》だろう。昔は簡単に、年長者にでも友だちにでも聞いたものだが、なぜかそれが、見事になくなった。  柳田国男《やなぎたくにお》が「人を笑うということで、お互いが教育し合ったんだ。笑われるということの怖さ、いやさ、同時に笑ってやるという一つの教育方法があったのにだんだん乏しくなってきた」と嘆いたのが昭和の初めだったから、そういう傾向がずうっと続いてきたのだろうが、現在ではもっと激しい。それは、三五年間、大学に一応学問の専攻者として職を奉じた人間として、私が痛感する現象でもある。 「教えを仰ぐこと」に誇りを持ちたい[#「「教えを仰ぐこと」に誇りを持ちたい」はゴシック体]  たいていの大学の国文学科には、古代をやっている人、中世をやっている人、近世をやっている人といった工合に、だいたいワンセット揃《そろ》ってる。だから、自分の専門でないことについてちょっと言及しなければならない時に、私などは信頼できる同僚に気軽に聞きに行く。ところが、そういうことをまったくしない大学人が圧倒的に多い。そのため、簡単な間違いをして平気な学者の論文が跳梁跋扈《ちようりようばつこ》するようになった。これは、なにも学者の世界だけではなく、現代のあらゆる社会に言えることではないだろうか。そして、自分の一生を振り返る時、それではやはり大きな損失であると思う。分からないことは、分かる人間に聞け──これこそ鉄則である。  孔子が、ここで「自分が考案するだけで、教えを仰ぐことをしない」というのは、もちろん年長者に聞くことを言っているのだが、現代のように、知識の量、情報の量がこれほどまで輻輳《ふくそう》してくれば、同年配であろうが、あるいは自分よりはるかに若かろうが関係はない。自分の専門と守備範囲がちょっとでも違えば、なかなか手が届かないのが現代である。そういう時に、いちいち自尊心や虚栄心の痛みを感じないで、すぐに情報交換をやれるような心構えは、やはり肝要である。しかも、そのほうが両方得をする。このように自分の周辺に及ぼして、いくらでも適応できる考え方というものを、『論語』は繰り返し、繰り返し語っているのである。  ところで、『論語』は二十巻あるが、だいたい前半の十巻が本命で、あとの十巻は付け足しと言えなくもない(もちろん全部を読むに越したことはない)。そこで、エネルギー節約の原則を厳守したい人は『論語』の前半だけを読めばよい。また、宮崎市定の訳文では、武断的に割り切りすぎていてどうも気に食わんという感性の持ち主には、桑原武夫《くわばらたけお》の『論語』(筑摩書房刊)をおすすめしておこう。 [#改ページ] (3)説得の表芸と裏芸──『ジュリアス・シーザー』   ──シェイクスピアが展開した人間関係論の極致 「説得の技術」の王道とは何か[#「「説得の技術」の王道とは何か」はゴシック体]  数あるシェイクスピアの作品の中で、とくに『ジュリアス・シーザー』を選んだ理由は、この作品に、現代人に必要不可欠な弁論による人心|掌握《しようあく》の方法が、具体的に展開されているためである。そして、この作品の中でも最も重要な部分は、シーザーが暗殺された直後に行なわれるブルータスとアントニーの演説にある。  文庫版にしてほんの一〇ページ足らずで展開されるこの二人の演説には、かなりの数の民衆を相手に説得する技術の表芸と裏芸の二つが、見事に対照されている。これは単にドラマとしてではなく、極め付きの弁論の術を描いた書として、世界的な遺産だと言ってよい。  そこでまず、二人の演説にいたるまでの経過を説明しておきたい。  シーザーが「ブルータス、お前もか」と叫びながら暗殺される。そしてブルータスは、集まってきた民衆に対して、なぜシーザーから最も信頼され、かつ人格高潔をもって鳴る自分が暗殺に加わったかについて演説を始めるのだが、実はその演説の前に、シーザーの跡目を狙うアントニーはブルータスに対して、次のような心にもないことを耳打ちする。 「君がシーザーを暗殺したことは、君の高潔なる信念に基づく義挙であり、悲壮な行為である。だから自分も民衆も少しも不満に思わないばかりか、君の行為を肯定する」と。つまり、ブルータスが最も言ってもらいたがっているセリフを贈り物にして、ブルータスが心の中でいちばん案じている弱い部分をくすぐり、ブルータスに自己満足という鎮静剤を提供したのである。  一般に、満足した人間は、どちらかと言えば、その上の飛躍を企《たくら》まない。つまり、アントニーはブルータスを満足という檻《おり》に閉じ込めたのである。しかも、すかさず「このあとの政局にあっては君のために充分な椅子を用意する」といった露骨な言葉で、アントニーはブルータスを十重二十重《とえはたえ》に縛ってしまう。  このように慎重な手を打ったうえで、アントニーは「ブルータス、民衆に君の意図を充分説明したまえ、ただそのあとで、自分は友人としてのシーザーに弔《とむら》いの言葉を述べたい」と言う。そして、この落とし穴にブルータスは見事にひっかかってしまうのである。 『ジュリアス・シーザー』の、このブルータスとアントニーの演説の部分は、まことに教訓に満ちている。たとえば読者が、さまざまなむつかしい条件のもとに人を説得しなければならない局面に出会ったとき、一人部屋へ帰り、この部分を心静かに開いて読み直してみれば、どれだけ多くのヒントが与えられることか、また、どれだけ勇気づけられることか。  私はシェイクスピアの新しい訳が出ると、必ずここだけは読んでみる。ここがどう訳されているかを読むのが実に楽しい。シェイクスピアのドラマはもちろん韻文《いんぶん》だが、それを正直に行を切って訳されたのでは、現代日本人にはあまりピンとこない。小田島雄志《おだしまゆうし》の訳も、自由詩のように行を切って訳してあり、どうしてもピンとこない。坪内逍遙《つぼうちしようよう》は昔、荘重なる弁論体で訳したわけだが、戦後に現代風に訳した福田恆存《ふくだつねあり》の翻訳(新潮社)が、私にはやはりいちばんピンとくる(以下、抜粋部分は福田恆存訳による)。 大義名分だけで、人は納得するのか[#「大義名分だけで、人は納得するのか」はゴシック体]  では、ブルータスは演説で何を訴えたのか。「私の話を聴いてその理想とするところを汲《く》みとってもらいたい」と、ブルータスは、まず理想論・意図論を振りかざすことから始める。  ブルータス曰《いわ》く「おれはシーザーを愛さぬのではなく、ローマを愛したのである。みなは、シーザー一人生きて、他のことごとくが奴隷として死ぬことを望むのか」と、ローマの自由、ローマのデモクラシーと、それに対するローマの独裁者たらんとする野心に満ちたシーザー、この二つの価値評価軸を持ち出してくる。  つまり、自分がこのような異例な暗殺事件を起こしたのは、ひとえにローマの自由を救うためである。ところが、たまたま自分はシーザーの親友であり、シーザーに最も信頼され、同時に死ぬ直前のシーザーが、「ブルータス、お前もか」と叫んだという自分の置かれた特別な立場を、ブルータスはブルータスで逆手に取ったわけである。  自分はそれほどシーザーを愛し、またシーザーに愛され、長年の友情と信頼感を持《じ》してきた。その自分でさえ、シーザーに対して起《た》たなければならなかった。それほどにシーザーは野心が強かった。そのシーザーの野心をつぶしたのは、もちろん自分の私怨《しえん》ではなく、ひたすらローマの自由のためであったと、自らの行為のすべてを公明正大調で説得していく。自分の意図は公明正大であり、目的は大義名分にかなうものであると、公式の弁論で一貫する。  こういった公式の建て前、大義名分を振りかざした演説は、特に人格高潔な人間がやった場合には、絶大なる説得力を発揮する。しかも、「君たちは奴隷になることを望むのか」という脅《おど》し文句があって、演説はほぼ成功する。  誰が聞いても、これで勝負あったと思うはずである。  ところが、その後に現われたアントニーは、まず喪服を着て登場する。そしてその前には、シーザーの遺骸が運びこまれる。現代人が人を説得する場合に、喪服を着ることはまずないが、喪服を着たかのような表情やたたずまい、発言様式というものはありうる。これは、まことに効果のあるスタイルで、この場合も、アントニーの演説によって民衆は、ついさっきのブルータスへの賛同をまるで忘れたかのように、亡《な》きシーザーへの同情、弔《とむら》いの心を爆発させるのである。  話が前後するが、高潔、公明正大なるブルータスは、自分の演説の最後に「私を一人で帰してもらいたい。そして、私のために、ここにアントニーとともにとどまってくれ。……シーザーの功績を讃《たた》えるアントニーの言葉にも敬意を表してもらいたい」と付け加えてしまったのである。  ここが大義名分を振りかざし、公明正大に生きる男の泣きどころである。人類史上、破格の事件を起こした人間はたくさんいる。はっきり悪のため、あるいは自分の利益のためにやった、もしくは政権|簒奪《さんだつ》欲のためにやったという人間は別にして、無私で、大義のため、正義のため、社会のために事を起こしたという建て前を貫こうとする人間は、どうしても、どこかに公明正大なるゆとりを見せなければならない、という強迫観念にとりつかれる。まさに、ブルータスはその典型だろう。それと同時に、公明正大を貫こうとした姿勢に、実は落とし穴が含まれていることもけっして見逃してはならない。  スターリンは絶対にブルータスにならなかった。つまり、彼は建て前としては、もちろんイデオロギーのため、大義名分のために空前絶後とも言うべき粛清《しゆくせい》をやったわけだが、絶対に公明正大ぶることをしなかった。自分のやったことを完遂するためには、相手に対する同情とか譲歩とか相手の面子《めんつ》を立てる配慮など、ビタ一文示さなかった。徹底的に叩きのめすという残忍の極みに達した政治根性の極北をいった。おそらくスターリンは、公明正大ぶった革命家が最後に足をすくわれるという『ジュリアス・シーザー』の教訓を、深夜ひそかに、夢中になって反芻《はんすう》していたのではないだろうか。 相手の論理を引っくり返すテクニック[#「相手の論理を引っくり返すテクニック」はゴシック体]  さて、アントニーが登壇し、ブルータスに対して静かに反論を加えはじめる。その場合、アントニーの採《と》った論法の第一は、大義名分を独占し、|建て前《ヽヽヽ》を押し通したブルータスの言い分に対して、論理的《ヽヽヽ》にはいっさい歯向かわないことである。  むしろ逆に、それを次のように一〇〇パーセント認めてみせる。「ブルータスは言う、シーザーは野心を懐《いだ》いていたと。そしてブルータスは公明正大の士である」というように、ブルータスの言い分を論理の言葉として先に流す。  ところが、実際にはシーザーがいかにローマ市民のためにたくさんの戦利品を持ってきたか、それを縷々《るる》描写する。つまり事実の報告を、やや感情を交《まじ》えた描写の力で述べたてる。  つまり、ブルータスの論理に対して、事実に基づく描写をもって対抗する。これがアントニーが採用した第一の手段だった。しかも、誰もがすぐに思い浮かべることのできるような即物的な描写で。  たとえば、「生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ったことがある。しかもその身代金はことごとく国庫に収めた。かかるシーザーの態度に野心らしきものが少しでも窺《うかが》われようか? 貧しきものが飢《う》えに泣くのを見て、シーザーもまた涙した。野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。そして、ブルータスは公明正大の士である」と。こういうふうに畳《たた》み掛けていく。  次にシーザーの遺骸を指して、「見ろ、ここをカシアスの短剣が刺し貫いたのだ。見るがいい、この酷《むご》い傷口こそ憎むべきキャスカの手のあとだ。そして、これが、あれほどシーザーに愛されたブルータスの刃のあとなのだ。奴がその呪《のろ》われた剣を引き抜いたとき、想ってもみろ、シーザーの鮮血がさっと迸《ほとばし》り、まるで戸口を押し開けるような勢いで剣のあとを追い、今の無法な訪《おとな》いの主がまさかブルータスではあるまいと、それを確かめようとしたに違いない」のだと、描写をすすめていく。  そして、アントニーが最後に出してきたのが、シーザーの遺言状である。  このシーザーの遺言状も、実際にあったかどうか分からないもので、この場合にも、明らかに一つの詐術《さじゆつ》がある。人間が、本当に死ぬ、絶対に自分は死から免れられないと思った時に書いた遺言状と、別にそうは考えないで書き残している遺言状との間には、相当な格差がある。だからこの場合も、シーザーが自分の将来のために、あくまでも一つの作文《ヽヽ》として書いておいたものかもしれない。しかし、そういう常識的な疑いが聞いている者に浮かばないほど、アントニーは見事に畳み掛けていく。  ところで、この劇のいちばん最初の部分に、シーザーがローマ帝国の王冠を捧《ささ》げられた時の態度について言及されている。つまり、アントニーがシーザーにローマの王冠を捧げた。しかし、ポーズとしてシーザーはそれを退《しりぞ》ける。すると、そのシーザーを見て民衆はワーッと喜んだ。その時、シーザーは「民衆は自分を皇帝として望まないのか」と、実にいやな、失望を隠せない表情をしたという。つまり、その表情にはローマの王位を狙うシーザーの野心がありありと窺《うかが》えたというのが、アンチ・シーザー派の観測であり、それが劇の最初に出てくる。  今、アントニーの演説を聞いている民衆は、そういう意見や見方を聞かされていないが、劇の観客あるいは読者は、ちゃんと先にそれを聞かされている。ところが、アントニーが淡々と、「私は三たびシーザーに王冠を捧げた。が、それをシーザーは三たび卻《しりぞ》けた」と言った時には、シーザーの表情がどうであったのか、隠された気持ちがどうであったのかということは、人びとの記憶から完全に消え去ってしまうわけである。 理性ではなく、人は感情で動く動物である[#「理性ではなく、人は感情で動く動物である」はゴシック体]  そういう演説なのだが、二人の演説を対照してみると、まず大義名分による論理的説得には限界がある、ということがよく分かる。ブルータスの最大の誤りは、たしかに大義名分による説得は可能だが、それだけで人の心の奥底までを動かすことはできない、大義名分にはもう少し情緒的な裏付けが必要だということを忘れているところにある。  さらに彼は、「自分は人格高潔な人間だ」という思い上がりがあったために、集団としての人間というものは、論理とイデオロギーだけで完全に説得できると思い込んでいた。あるいは、人間はことほどさように理性的な存在であると信用しすぎていた。そして、その裏をかいたのが、アントニーの演説だったのである。  この場合のアントニーの論点は二つ。一つは、自分はシーザーの喪《も》に服し、喪主として葬儀を行ない、彼の生前の勲《いさおし》をせめて皆に伝えたいという喪主の立場に立つ。一方、暗殺者の一群には、シーザー亡き後のローマの政局は、自分たちが担《にな》うという自負心がその態度に現われている。それは言葉に出さなくても、取って替わるものという|たたずまい《ヽヽヽヽヽ》で人の前に現われてきたことで明確である。これがブルータスの致命的な失敗であった。  アントニーはそれを逆手にとって、まず自分の立場を規定した。自分はシーザーに取って替わるものではない。政界から消されたシーザーの、自分は弔《とむら》い人であるという姿勢を、まず示した。この手法は洋の東西を問わず、昔から有効で、その弔い人の立場に身を置いて、あっという間に世の中を引っくり返した人間はたくさんいる。  たとえば、日本で言えば太閤秀吉がそのいい例だろう。秀吉は、まず二条城で信長の長男の子ども、三法師君《さんぼうしぎみ》の身柄を押さえる手を打った。そして、自分は信長の弔い人であって政権の略奪者ではない、というスタイルを示すために、故右大臣・信長の大法会《だいほうえ》にその三法師君を抱いて出てゆき、この瞬間に明智光秀は逆賊となったのである。  アントニーの第二の作戦は、その描写力に訴えたことである。だいたい弁論家が最後に失敗するのは、描写力に欠けた場合が多い。人を説得するには、論理的に整然としていなければいけないのはもちろんのことだが、それをいかに人の情感に訴える描写力でつなぐかが根本になる。  このように、シェイクスピアは二つの弁論の方法を、この『ジュリアス・シーザー』で見事に対比させている。  つまり、人間を説得するための技術が凝縮されて語られていると言ってよい。論理で人を説得しようと図《はか》り、成功しかけた人間の陥《おちい》るであろう落とし穴。大義名分を独占しているかのごとく、一段上の立場に立って、勝利に酔いしれている人間の弱点をどこに見い出したらいいか。これは現代人への重大なる教訓になりうる。だから、われわれ現代人も、この演説だけは、まるまる暗記したほうがいいのではないだろうか。  シェイクスピアは、人間の心理を洞察し、言葉でそれにどう対応すればいいのか、という弁論術の史上最高の宝庫である。シェイクスピアを読むには、この視点をはずしてはならない。だから、ハムレットの悲劇がどうだとか、ツルゲーネフが言ったように、人間にはドン・キホーテ型とハムレット型があるとか、そういうややこしい議論は、いくら聞いてもしかたがない。  また、シェイクスピアの芝居のいろいろな登場人物に関する劇作上のむつかしい議論も、それのお好きな方はどんどんおやりになって結構だが、本来、そんなものはどうでもいいことであって、現在に生きる人間関係論を学ぼうと思うなら、シェイクスピアの中の名セリフ集を読むだけで充分なのである。 [#改ページ] (4)人間が人間を評価する基準──『プルターク英雄伝』   ──知謀に長《た》けた人間には、どんな落とし穴が待っているのか 少年時代、私が最も感銘を受けた一節[#「少年時代、私が最も感銘を受けた一節」はゴシック体]  前項で述べた『ジュリアス・シーザー』は、ここで採《と》りあげる『プルターク英雄伝』を材料としてシェイクスピアが創作したものだが、この『プルターク英雄伝』は大変な難物である。  というのも、『対比列伝』、『英雄伝』なるものを書いた古代ローマのプルターク(四六?〜一二〇)という人は、お世辞にも文章家とは言えなかった。ただし専門の学者も説明しているように、この時期にはまだ人間の行為や事件の成行きを、見てきたようにドラマティックに描く表現術、文体ができていなかったのも事実である。だからプルタークは、おそらく個々の人間の逸話を交《まじ》えた歴史を史上初めて書いた人物だと言える。したがって、時代的には精いっぱいの作品だったという認定はできても、いかさま現代人にはおもしろ味に欠ける。  戦後になって、原語から完全に直訳した、語学的には最も優れていると言われる河野与一《こうのよいち》の岩波文庫の翻訳が出たが、あれを第一巻から読みはじめて、全巻最後まで読みつづけられる人は忍耐心の化け物であろうと思われるほど、読んでいておもしろくない。  昔、われわれの子どもの時分には、たいてい鶴見祐輔《つるみゆうすけ》の訳で読んだ。この人は政治家であると同時に、たいへんな文筆の人でベストセラー作家でもあったが、彼が改造社から出した全六巻本は実におもしろかった。つまり原文にあまり即さないで、いっぺん自分がきちっと話を覚え、それを、細部は全部|生《い》かしながら、再び文章にするという再話形式で書いたものだった。これは、戦後、潮文庫に入り、版を重ねているので注文すれば手に入る(ただし、全八巻のうち一、二、六巻は品切れ中)。また、かつて鶴見祐輔が計画したのと同じ精神で、現代人の文体をもって『プルターク英雄伝』の再話を私が試みたものが『新・プルターク英雄伝』(祥伝社)である。 『プルターク英雄伝』にはたくさんの英雄、偉人の波瀾万丈の生涯が書かれており、いろいろな人間のタイプを見ることができる。ここではそれを一つひとつ紹介することはできないので、代表的な人物を選んで一人紹介したい。  さて、『プルターク英雄伝』の中の誰の伝をもって代表とするのか。私は躊躇《ちゆうちよ》なくアテネの知将・テミストクレス伝を採りたい。実は、このテミストクレスの話は、子どもの時に読んで以来、一時も頭から離れたことがないものである。  ところで、この中の見所を言う前に、一ヵ所、子ども心にもひじょうな人生勉強になった部分があり、それを紹介しておきたい。それは「貝殻《かいがら》追放」の一件で、この貝殻追放《オストラシズム》とは、わが都市国家・アテネにとって、この人間はためにならないと思う人物の名をカキの殻、実際には陶片に書いて、特定の日に投票するという制度で、一位当選した者は、理由のいかんを問わず一〇年間国外に追放する。つまり貝殻投票の一位であったことが唯一の理由で、なぜ、その人間がいけないかということはいっさい問わない。これは考えてみると、実におもしろい制度で、人間性というものをよくよく見抜いた偉大なる天才の発明ではないだろうか。 �人間は、評判のよすぎる人間を嫌う�[#「�人間は、評判のよすぎる人間を嫌う�」はゴシック体]  さて、当時のアテネには政局を左右する人物が二人いた。一人は知謀あふるるがごとく、同時に野心満々、いつも奇妙きてれつな提案をする乱世の雄、知性の怪物たるテミストクレス。もう一人は、それと対抗する政治的指導者アリスティデス。この二人は物語の最後まで複雑な関係を保って登場してくるのだが、テミストクレスは、このアリスティデスをここで国外に追放しないと、自分の立案する政策が実行されないという局面に立たされた。そこで彼は、アリスティデスを追放するため、いろいろ根回しをして貝殻追放を行なうことにした。  その結果、ついにテミストクレスの野望が成功してアリスティデスは追放されるのだが、その投票の日のちょっとしたエピソードとして、次のような出来事が書かれている。  問題の人物アリスティデスが町を歩いていると、見知らぬ一人の卑《いや》しい男が往来でアリスティデスの袖を引き、「旦那、すまねえがおれは無筆で字を書けねえもんだから、ちょっと書いてくれねえかな」と言う。そこで、彼はその男の投票用紙である貝殻を取って、「じゃ、代《か》わりに書いてやろう、なんと書くんだ」。と、その卑しい男は言った。「アリスティデス」。アリスティデスはキッとその男の顔を見て静かに聞いた。「どうして君はその人(つまり自分のこと)を追放しようと思うのかね」。すると、その無筆の男はこう答えた。「なあに、別に訳はないんだけど、あんまり皆がアリスティデス、アリスティデスと賞《ほ》めるのを聞くのがうるさいからな」。そこでアリスティデスは苦笑して、黙って自分の名をカキの殻に書いてやった。こういう一節である。  この話は子ども心に、「なるほど、あんまり皆があの男、あの男と賞めるのを聞くと、その男を逆に追放したいような心理が、人間には働くものか」という強烈な印象を残した。  これは、実際にあった話かどうかは分からない。しかし、プルタークはこの小さなエピソードをテミストクレス伝の中に書きつけたわけである。これは『プルターク英雄伝』の中で、絶対に忘れることができない一節だった。  その後、このささやかな挿話を一本の糸口として、いろいろ世間を見、あるいは頭の中で考えて、人生というものの勉強を展開していったわけだが、人間というものを知るための大切なものが、そこからポツリポツリと玉をなして出てきたような気がする。  私は、こういう話が伝記の中に書くに値《あたい》すると思って書きつけたプルタークの人間認識というものに、なみなみならぬものを感じる。これはあまりはっきりした、誤解のしようのない話だから、ストーリー自体は誰でも覚えられるが、肝心なところは、プルタークがこの話の底深いところにある恐ろしさを分かっており、そして、それを後世に書き残し、伝えるに足《た》るものだと判断したところにある。  つまり、これこそ『プルターク英雄伝』がイギリスで翻訳されて以後、世界中のベストセラーとなり、多くの人が枕頭《ちんとう》の書とした秘密である。ただの英雄偉人伝だとか、あるいは世の中で戦った人物の苦労の歴史というふうに、この本は読まれてきたのではないのである。人間性論の本質を突いた古典であるという認識で読まれつづけてきたわけである。 偉人、英雄を駆《か》り立てる情念の本質[#「偉人、英雄を駆《か》り立てる情念の本質」はゴシック体]  では、いったいテミストクレスとはどういう人間であったのか。『プルターク英雄伝』の中の「テミストクレス伝」に登場する彼は、たいへんドラマティックな人間と言える。テミストクレスは功名心の塊《かたまり》のような人間であった。なぜかと言えば、彼の家柄が卑《いや》しかったからである。つまり、正規の上流市民階級ではなかった。そのコンプレックスが彼の一生を支配した。  この人の功名心というのは、言い換えるなら自分の属している当時の都市国家のシステムに対する敵愾心《てきがいしん》であり、闘争心にほかならない。都市国家に対して、何らかの変更を迫り、襲いかかり、システムそれ自体を動かして、自分が最高とまではいかないまでも、自己満足が可能な地位を占めうるような政治形態に変革したいという熱望、希望である。  プルタークはこの英雄伝の中で、それぞれの登場人物を駆《か》り立ててきたバネとは、いったい何であったかということをつねに重視している。たとえば、ハンニバルは一生、ローマを攻めるために戦ったカルタゴの将軍だが、その強烈なバネを、子どもの時、父王と一緒に「神様、見ていてください。私はきっとローマを亡《ほろぼ》しますぞ!」と誓ったことにプルタークは求める。そして、「ああ、この幼い口から叫ばれた誓いこそ、そのころ四方に威《い》をふるっていたローマを、危急の淵に叩きこんで、全世界を震駭《しんがい》せしめたところの、大活劇の発端なのである」と書く。  つまり、プルタークはつねに人間の情念が発祥する水源地を見つめよう、探し求めようという姿勢を崩《くず》さない。人間は、自分の力で抑えたり変化したりできないような熱烈なる情念にそそのかされつづける存在だという見方が、彼の根本にある。したがって、この伝記の登場人物もすべて出身の描写から始まる。その出身も、単に家柄がどうだというだけでなく、その何が彼を駆り立てたかを、いろいろバラエティーに富んだエピソートを交《まじ》えながら追い求める。  テミストクレスの能力は、知謀|湧《わ》くがごとしであり、戦いの指導力、あるいは戦術、戦略の立案者として抜きん出ており、これには誰も異存がない。そして、このテミストクレスが最初に大きな成功を収めたのは、スパルタとアテネが連合してペルシャと戦った時のことであった。その時に、スパルタは陸軍国で、軍艦はたった一〇隻しかない。アテネは海軍国で、一二七隻持っていた。したがって両者の同盟艦隊の司令官は、絶対にアテネの海上軍艦を率《ひき》いるテミストクレスになるはずであった。ところがテミストクレスは、その時にあえて、スパルタの大将エウリピデスを連合艦隊の司令官にした。  もちろん一〇隻しか持っていない国の艦隊司令官が、合計一三七隻の全艦隊を支配できるわけがない。司令官という名前だけを隣りの国の大将に与えて、実際はテミストクレスがその艦隊を運用する。これもプルタークはよくよく考えて書いたと思うのだが、その前半生においては、テミストクレスはそういう余裕のある深慮遠謀を試みたわけで、この司令官の譲り合いということが、彼を大成功に導いたのである。さらにその次に、サラミス湾の大海戦の物語がくる。 人間は、一度《ひとたび》思い上がると止めどがなくなる[#「人間は、一度《ひとたび》思い上がると止めどがなくなる」はゴシック体]  これはギリシャとペルシャの戦いだが、日本海海戦と同じように、敵軍が完全に滅亡したわけではなく、ただ、出会いの局地的海戦に勝ったにすぎない。その時点では、まだまだペルシャ海軍は温存しているし、いわんや陸軍はもっと強大な力を持っていた。したがって、戦いそれ自体の帰趨《きすう》はまだ定まらない。そこで、この勢いに乗って、さらにペルシャ軍を追いかけようというアテネの世論をテミストクレスが抑える。つまり、わざとペルシャ軍が本国に逃げて帰れるように退路を作ってやることで全面戦争となることを避《さ》け、これが結果的には困難を救うことになったわけである。  ここまでが、テミストクレスの全半生の成功物語であるが、その後に続く彼の人生がまた劇的である。ペルシャ戦争に勝利を収めたアテネでは、当然、論功行賞が行なわれる。そして、いったい誰が一番の殊勲者であったかを決めることになった。その方法は、一番は誰、二番は誰、三番は誰かということを、従軍した兵士がコリント海峡の祭壇の前に集まり、投票するというものだった。  この時おもしろいことに、全員が、第一位に自分の名前を書き、第二位にテミストクレスの名前を書いたという。事実かどうかは分からないが、最高の殊勲者は自分自身だと全員が考えていた、などという皮肉なことを、よくもまあプルタークは書いたものだ。  その結果、最高の殊勲者はテミストクレスということになったが、ここで彼は豹変する。つまり、自分はアテネの象徴的な存在だ、とテミストクレスは自惚《うぬぼ》れるわけで、その思い上がったエピソードが、いくつも書かれることになる。  たとえば、ある日テミストクレスは友人と海岸を散歩していた。するとそこに、金の鎖や黄金の腕輪などを着けた死骸が打ち上げられている。当時は、それをすぐ盗《と》ってしまうのが一般の風習だったが、テミストクレスは友人を顧みて、「君、あれを盗りたまえ。君はテミストクレスではないのだから」と言ったりする。  これに類するエピソードは随所に出てくるが、皮肉なことに、この権勢の絶頂に立った時も、彼は、青年時代に自分の父親が話してくれた言葉を忘れてはいなかった、とプルタークは書く。  ある時、彼の父親は荒れた磯《いそ》に打ち上げられた小舟を指して、「あれを見ろ、あれが政治家の運命だ。用がなくなったら、ああいうふうに民衆から捨てられるのだ」と彼に教え、彼はその言葉を終生忘れなかった。しかし、それでいてその行動は傲慢《ごうまん》そのものであった。つまり、本人に思い上がったつもりはなくとも、知らず識らずのうちにテミストクレスは舞い上がってしまった、とプルタークは言っているわけで、こういう例は、現在でも随所に見られる。実に皮肉な話というほかはない。 知謀に長《た》けた人間に待っている運命[#「知謀に長《た》けた人間に待っている運命」はゴシック体]  そのあと、再びアテネにとって国難ともいうべき局面が起こる。その時、民衆の前にテミストクレスは立って、 「諸君、わが輩にはわがアテネの国威を高めるための名案がある。それも非常な名案である。今、それを胸に秘めているが、それは敵に対する策だから秘密を要する。そこで諸君にそれを説明することはできない。しかし私は、その案に絶対の自信がある。だからそれを信用してくれるか」と呼びかける。  すると、民衆は口を揃《そろ》えて叫んだ。 「よしわかった、ではそのお前の名案というものをアリスティデスに相談してくれ。彼がその案を良策と認めるなら、お前がそれをやってもいい」と。  つまり、かつての政敵で、一〇年間も貝殻追放の憂き目をみたアリスティデスではあるが、「そのアリスティデスが、テミストクレスの案に最終的な断を下すのなら彼の提案は信用できる。しかし、のぼせ上がっているテミストクレスの独断にまかせては危険だ」と、民衆はすでに彼を疑うようになっていたのである。  そこで、テミストクレスは、アリスティデスの耳に口を寄せて、 「実はバガセに集合しているギリシャの同盟艦隊をみんな焼いてしまおうと思う。そうすれば、自然にアテネはギリシャの覇者《はしや》になれる」と、秘策の内容を漏《も》らした。つまり、バガセにはアテネやスパルタをはじめとする全ギリシャの連合艦隊が集結しているわけだが、そこを襲い、アテネの船だけ残して全部焼いてしまう、という無謀きわまりない作戦だったのである。  すると、アリスティデスは深くうなずいて、民衆の前に立ち、語りかけた。 「テミストクレス君の献策は実に天下の妙案である。と同時に最も不信不義なるものである」と。  そこでこの秘策は葬《ほうむ》られ、以後、テミストクレスの人生は下り坂になっていく。  そしてその次に、石田|三成《みつなり》が加藤清正たちに追われて大坂城の政局から追放された時、自分の領地である佐和山《さわやま》に帰れないため、最大の敵である徳川家康の屋敷へ逃げ込んだのと同じような事態が起こる。家康は、殺すことのできる三成をわざわざ佐和山へ送り届け、その結果、関ヶ原の戦いが起こったわけだが、テミストクレスも三成と同じことをやったのである。なんとテミストクレスは失脚し、追放されると、アテネの仇敵ペルシャへと逃《のが》れたのである。  彼は、自分ほどの男を、ペルシャ軍はむざむざと殺しはしないだろうと踏んで、乾坤一擲《けんこんいつてき》の大博打《おおばくち》を打ち、これにまんまと成功し、敵に身を潜め、しかも、彼は国賓として待遇されたのである。そして最後には、ペルシャのアテネ追討艦隊の司令長官に任命されることになった。  しかしここで、テミストクレスとアルキビアデスの決定的な違いが現われる。アルキビアデスはプラトンの愛弟子《まなでし》で、たいへんおもしろい武将だが、やはりテミストクレスと同じような運命をたどった人物である。  しかし彼は、ペルシャ軍を率いて、平気で祖国アテネに攻めのぼったのである。まあ、このあたりに彼が人間としてあまり評価されない秘密があるのだが、これは余談である。  話をテミストクレスに戻せば、彼はペルシャの地で優遇されたために、アテネ追討艦隊の司令長官を避けることができなかった。だが彼には、その務めを果たすこともできなかった。そこで、自ら毒杯をあおいで死んでいったのである。知将であるがゆえの悲劇的な運命といえよう。 人間が他人を評価する原理とは[#「人間が他人を評価する原理とは」はゴシック体]  この話の中にあるどのエピソードも、現在、そのまま通用するところが多い。敵国という言葉も、戦争状態にある完全なる敵国と考えなければ、私たちの日常に充ち満ちている。また、ほかの偉人を扱った伝記には、多少その時代の特殊な条件を頭に入れないと分からない面もあるが、テミストクレス伝には、そういうところはない。しかも『プルターク英雄伝』にはいろいろな人間の運命が登場するが、その主なパターンは全部ここに集まっているのである。  それではプルタークは、全巻を通して何を書こうとしたのか。あるいは、現在のわれわれの目から見て、この本のいちばんの眼目はどこにあるのか。これを一言で言うと、�人間には、人間をどのように評価する習慣があるか�ということになる。  そして、この原理は、政治の世界でも、ささやかな日常生活でも、なんら変わることはない。たとえばプラトンの章では、彼の塾の中でのいろいろな人間の葛藤《かつとう》が描かれているが、そういう政界、学界、そのほかどんな場所でも、人間は必ず人間の中で生活しなければならないのであって、伯夷叔斉《はくいしゆくせい》のように、自分の節《せつ》を守って蕨《わらび》だけを食《く》って首陽山《しゆようざん》で餓死するわけにはいかない。  だから、人間の中にしか生きていけない人間というものの、最後の精神的なよりどころは何かというと、自分が自分以外の人間によって、つまり世間からどのように評価され、あるいは認められ、あるいはけなされているか、つまり、自分がどう見られているか、ということしかないわけである。しかも、これこそ人間の生きていく根本であり、その精神の患《わずら》いの根本だと言えよう。  もちろん、人間というのは自惚《うぬぼ》れの塊《かたまり》で欲の塊だから、誰でも最高度に評価してほしいと思っている。また、自分が認められていると思っても、その他人の評価以上に自分は素晴らしい存在だと考えたがるものである。だから、幸福な一生が送れるというものかもしれない。  とにかく、どんな場合でも、息を引き取るまで自分がどう評価されているか、どう見られているかが本人の意識の中枢を占めている。そして、この魂の患《わずら》いに対処するには、人間はそういう生き方しかできないのだと悟《さと》る以外にない。そして、せめて自分の気持ちを平静に整えるために、人間が人間を評価する方法、チャンネル、スタイル、基準というものはどういうものなのかということを、できるだけわきまえるように努力するしか道はないのである。  そういう観点から『プルターク英雄伝』を読んでいくと、この古典に登場するいろいろなエピソードは、時代を超えてわれわれの胸に生き生きと迫ってくるのである。 [#改ページ] (5)歴史に必然性なし──『三国志』   ──日本人は、なぜこの歴史物語を最も愛読したのか 『項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》』が歴史的名著である理由[#「『項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》』が歴史的名著である理由」はゴシック体]  江戸中期に出版された頼山陽《らいさんよう》の『日本外史』が流布《るふ》されるまで、日本人は|読むべき《ヽヽヽヽ》日本の歴史書を持ってはいなかった。そう言えば、驚く人も多いことだろう。だが事実は、『日本外史』が書かれるまで、読むべき日本の歴史と言えば、江戸初期から水戸第二代藩主・徳川光圀《とくがわみつくに》が編纂《へんさん》しはじめた『大日本史』があるのみであった。しかも、この書は一般に流布するようなものではなく、ひじょうに高度な内容で門外不出、庶民の目には触れるべくもなかった。  時代を遡《さかのぼ》ってみても、『古事記《こじき》』などは神代のむつかしいお経みたいなものであり、『六国《りつこく》史』(奈良、平安時代に編纂された正史の総称)は、いわば宮廷行事録のようなもので、歴史として読むに値《あたい》するものではない。  では、一般人は何を読んだかといえば、全部シナの歴史であった。その二大巨頭は『漢楚軍談《かんそぐんだん》』と『三国志《さんごくし》』である。この二冊を読みこなしてしまうと、次に、『十八史略《じゆうはつしりやく》』を読む。『十八史略』を読むような人は、当時の相当な知識階級だが、この『十八史略』を読みこなした人たちは、さらに『史記《しき》』『漢書《かんじよ》』を読む。この二冊を読むような人は、それこそ最高度のインテリということだった。つまり、一般人に最も読み継がれ、日本人の歴史感情を養ったものは『漢楚軍談』と『三国志』、この二冊であると決めつけてもよいのである。  しかし、『漢楚軍談』だけ読んだのでは、たとえば劉邦《りゆうほう》というあの奇妙な人間のおもしろさ、偉大さは分からない。それを眼光紙背《がんこうしはい》に徹して書きなおしたのが、司馬遼太郎《しばりようたろう》の『項羽《こうう》と劉邦《りゆうほう》』である。この書には、『漢楚軍談』が書きえなかった�人間が大多数の人びとの信頼と支持を得るための条件�が、さまざまなかたちで描かれている。だからこの書の出版によって、『漢楚軍談』の歴史的使命は終わったと言ってよいだろう。 「大義名分」「実力」「誠実」──『三国志』を支える三本の柱[#「「大義名分」「実力」「誠実」──『三国志』を支える三本の柱」はゴシック体]  さて、日本人の歴史感情を養った『漢楚軍談』と『三国志』とでは、どちらが人気があったかと言えば、それは圧倒的に『三国志』だった。『漢楚軍談』は漢・楚という二極分裂のストーリー展開であるのに比べ、『三国志』は魏《ぎ》、呉《ご》、蜀《しよく》の三極に分かれており、それぞれが覇権を競い合い、しかも登場人物が劉備《りゆうび》、曹操《そうそう》、孫権《そんけん》、関羽《かんう》、張飛《ちようひ》、孔明《こうめい》……と多彩であり、見事なまでに人間が描き分けられている。シナの軍談のどれを読んでみても、『三国志』に匹敵するような血湧き、肉|躍《おど》る歴史書は見当たらない。  では、『三国志』のおもしろさとは何か。この歴史書は、あまりに複雑かつ厖大《ぼうだい》なために、一言でなかなか言い尽《つ》くせない。そのためか、私は今まで、そのおもしろさを簡潔に指摘した文章を知らない。それをあえて勇を鼓《こ》して、私はここでやってみたい。つまり、この『三国志』のおもしろさは、三つの柱に支えられていると断定して論を進めてみたい。  その一つの柱は、蜀《しよく》の劉備《りゆうび》に象徴される「大義名分」「正義」である。歴史あるいは歴史的人物を動かす論理として、大義名分、正義というものにはブルータスの演説について述べたようにある種の限度はあるにしても、たしかに大きな力を持つのも否定しがたい事実である。  しかし、大義名分だけでは世の中は動かない。そこで、大義名分に対立するものとして、「実力の論理」が、第二の柱として描かれている。これは魏《ぎ》の曹操《そうそう》に代表される。実力の論理は、大義名分を持たない人間が、大義名分を振りかざす人間に対抗しうる唯一の手段であり、統率力、民衆を惹《ひ》きつける政治力によって、歴史を大きく動かすことができるものである。ことに『三国志』では、大義名分を持たない曹操の血脈は絶えるにしても、実力の論理を遂行する魏が、最後に国家を制覇するといった展開が描かれる。つまり、大義名分で動く蜀は敗れるわけである。  この二つの柱に、諸葛孔明《しよかつこうめい》に代表される「誠実」という人間の美徳が、もう一つの柱として描かれている。つまり、人間の生き方を鼎《かなえ》のように設定し、そこにいろいろな英雄豪傑を配置したもの──これが日本人の読んだ『三国志』の姿ではないだろうか。 「大義名分」には、必ず弱点がある[#「「大義名分」には、必ず弱点がある」はゴシック体]  では、この三本の柱の中で、英雄豪傑たちはどんな人間ドラマを展開したのか。まず、大義名分について見てみよう。  漢王朝の末裔《まつえい》であると称し、その大義名分を大いに利用して蜀《しよく》に根を下ろしたのが劉備玄徳《りゆうびげんとく》だが、誰も彼が本当の末裔であるとは信用していない。証拠書類は一枚もない。ただ、中国は同じ苗字《みようじ》がひじょうに多いわけで、劉備の劉という苗字が、漢王朝との何らかのつながりを想起させるのかもしれない。  しかし、その劉備が誰よりも先に大義名分を得ると、人びとの不信の眼はあるにしろ、俄然、威力を発揮しはじめる。劉備に従う英雄豪傑たちを見ても、大義名分というものの力の大きさが理解できよう。そして、この大義名分も元を質《ただ》せば�早いもの勝ち�だと三国志は暗に示している。そして、劉備が正当な漢王朝の末裔であるという確かな証拠があるわけではないため、人びとの心の根底には空洞がある。つまり、大義名分そのものが、どうも胡散臭《うさんくさ》く思えてしまうのである。  これは偉大なる教訓である。もし、劉備玄徳が絶対疑うべからざる漢王朝の末裔だという設定なら、戦いに敗れ、四川《しせん》省のうらぶれた田舎に逃げ込み、そこで野垂れ死にするというストーリーにはならなかったに違いない。人びとから圧倒的な信頼と支持を得て、より強大な力を発揮したはずだ。  しかし、現実には『三国志』を読む人の誰もが劉備を漢王朝の真の末裔であるとは信じていない。このことは、大義名分が実際に人間社会に姿形をとって出てきた場合には、どこか弱みを持つものだという�無形の教訓�を私たちに提示しているのである。そしてここが、並みの物語には見られない『三国志』の大きな功績だと言える。  日本の歴史を振り返っても、幕末社会は大義名分が跳梁《ちようりよう》した社会だった。また、それ以後の日本史を見ても、同じことが言える。  ところが、大義名分の旗印を掲げつづけた劉備玄徳は、そのいかさま性を摘発されるどころか、知謀に長《た》け、最も頭のいい人物の代表とされる諸葛孔明《しよかつこうめい》のような人材までが、この劉備に一生を捧《ささ》げる。さらに、英雄豪傑として名のとどろく関羽《かんう》、張飛《ちようひ》もまた、劉備のもとを最後まで離れようとはしない。これには、耳が長くいかにも大人《たいじん》の面影のある劉備の風貌《ふうぼう》がおおいに与《あずか》っているのも事実で、『三国志』にはそれがちゃんと書いてある。 『漢楚軍談』あるいは『項羽と劉邦』でも、同じような評論軸が出てくる。『項羽と劉邦』では、劉邦が、この『三国志』の劉備と同じような風貌で、そのため、劉邦がいれば皆が安心したという。そして、そういう大人《たいじん》の風貌の有無《うむ》も覇者となりうるか否《いな》かの一つの大きな要素だとされる。この人物の風貌を重んじる伝統は、日本よりシナのほうがはるかに強く、これを心得ておかないと、この間の事情は、ちょっと分かりにくいかもしれない。 「実力の論理」、「悪の論理」の魅力[#「「実力の論理」、「悪の論理」の魅力」はゴシック体]  次に、第二の柱である「実力の論理」が、いかに物語られているかを述べてみたい。劉備が大義名分を掲げた�善�の代表であるなら、帝位を簒奪《さんだつ》し、一切《いつさい》のイデオロギー抜きで実力行使をする曹操《そうそう》は�悪�の代表と言える。  ところで皮肉なことに、この軍事の天才・曹操がいかに人心|収攬《しゆうらん》の名人であったかは、随所で描かれているが、劉備が人心収攬に成功したという描写は一度もない。やったことと言えば、諸葛孔明《しよかつこうめい》への�三顧《さんこ》の礼《れい》�だけである。善よりも悪が魅力を持っているという、この顕著な書き分け方、日本の歴史を題材にして描いた場合、勧善懲悪思想の日本人には、おそらくここまで不羈奔放《ふきほんぽう》な「悪の実力」の魅力は書けなかったに違いない。そして、この物語をわれわれ日本人がよろこんで読んできたのも、海の向こうの話というクッションがあるからこそで、舞台が日本なら、こうは人気を博さなかったことだろう。  それはともかく、曹操に代表される悪の論理、悪の魅力、実力の美しさといったものは、たしかに民衆に対する強烈な宣伝力を持ち、ひいては一糸乱れぬ統率力をも生み出す。しかし、しょせん最後まで、この『三国志』の世界では、大義名分的世界と悪の魅力の世界とは融合しない。また、統合もされない。そして大義名分、善の象徴である蜀は、最後になって悪の論理の前に降伏するが、その最後は、やはり日本人の感情からすれば受け入れがたい。  日本人は江戸の昔から、『三国志』は孔明の死で終わる、と考えてきた。また現代でも、その伝統は消えていない。たとえば吉川英治《よしかわえいじ》も、そこで筆をとどめている。もちろん『三国志』にはその後の続きがあるが、そこでは悪の論理が跋扈《ばつこ》し、結局、悪の限りが尽《つ》くされるという構成になっている。だが、この結末部分には日本人の感性が耐えられないのである。  しかし、結末が不愉快だからといって『三国志』を禁書、悪書だと、われわれ日本人も言わなかった。最後のほうに伏せたページはあるが、それまでの曹操の魅力に、読者は嬉々《きき》としてついていったのである。  つまり、あまり大きな声では言えないが、われわれ日本人も大義名分を絶対的なものと信じ、それですべての結着がつくとは思っているわけではない。この人間世界には、それ以外にも、人の心を動かす魅力あるものが存在することを認めているのである。そこが、ほかの歴史書と『三国志』との読まれ方の顕著な差なのである。 「出師《すいし》の表《ひよう》」で諸葛孔明《しよかつこうめい》は何を言いたかったのか[#「「出師《すいし》の表《ひよう》」で諸葛孔明《しよかつこうめい》は何を言いたかったのか」はゴシック体]  物語の後半では、蜀帝劉備《しよくていりゆうび》が白帝城《はくていじよう》で亡《な》くなり、宮廷内で政治権力闘争が起こる。そこで、内政のピンチを外政によって立て直そうとする諸葛孔明が、何回も軍を率いて中原《ちゆうげん》に打って出る。その時に孔明が有名な「出師《すいし》の表《ひよう》」を書く。これはどの本にも載《の》っていて、昔から「出師の表」を読んで泣かない者は男子ではない、と言われたほどのものだが、実は、この「出師の表」には、窮地に立たされた孔明の立場が如実《によじつ》に浮彫りにされているのである。  孔明は、自分がいかに先帝の遺志を受け継ぐ人間かということを、めんめんと書いている。だから、今までの『文章軌範』なんかを額面どおりにしか読めない純情な人は、先帝追慕の、つまり亡き劉備に自分の後半生を捧《ささ》げた孔明の情の激しさの証明と受け取り、むやみに感動するが、孔明の本当の動機はそんなものではなかった。要するに、あんなことを書かねばならぬほど、孔明は蜀の宮廷の内部で窮地に立っていたのだ。もし、孔明が先帝の委嘱を受け、暗愚な二世を守る一国の忠臣、柱石であるということが、その国の完全な共通了解事項であったなら、あんなものを書く必要など初めからなかったはずである。  宮廷内の政治権力闘争が続き、内政の経済的ピンチを外政で打開するために、孔明は魏《ぎ》との大決戦にいたるまでに、三回も打って出たのである。そして、三回目に死ぬわけだが、前二回はいつも途中で引き返してしまう。  なぜかというと、一つには補給が足《た》りなかったわけだが、これは初めから分かり切った事実である。彼ほどの知将が、その備えをしておかないわけがない。途中で引き返した真相は、出陣している間に宮廷が再び揉《も》めて、蜀の内包する危機が高まったからにほかならない。出ては帰り出ては帰りで、孔明はキリキリ舞いする。そして最後は、さしもの孔明も投げ出したような格好になって死んでゆく。  その後、蜀は宮廷の内部闘争で自滅し、魏に降伏する。つまり、まず蜀が消える。そして、蜀が消えれば、当然、呉も消える。曹操の後を継いだ曹丕《そうひ》がいかに勇猛なりとはいえ、なかなか両面作戦は展開できない。だが、鼎立《ていりつ》のバランスが崩《くず》れれば、力の強弱で単純に結着がつく。 英雄豪傑に見る二つの人間典型[#「英雄豪傑に見る二つの人間典型」はゴシック体]  さて、次に『三国志』を支える第三の柱──人間の美徳としての「誠実」が、どう描かれているかを見てみたい。『三国志』には武勇を以《もつ》て鳴るさまざまな英雄豪傑が登場するが、人間としてみた場合、二通りのタイプに分かれる。つまり、誠実さを持たない武勇と、誠実さ、あるいは忠誠さ、あるいは信義の裏打ちを持った武勇、この二つに截然《せつぜん》と分けられる。  誠実さに裏打ちされた武勇の代表としては、蜀《しよく》の関羽《かんう》、張飛《ちようひ》があり、武勇がありながら誠実さに欠けるため軽蔑される人間に袁紹《えんしよう》、呂布《りよふ》らがいる。もっとも関羽も張飛も悲運に倒れる。二人とも謀策《はかりごと》に遭《あ》って簡単にだまされて死ぬ。しかしそれは結果論であって、肯定的な人物像の死というものは、決まってある目的に対する�忠誠心の発露としての悲劇�として描かれる。  一方、忠誠さを持っていない人間は全部野垂れ死に、あるいは虐殺である。史実はどうであったにせよ、はっきり二つに書き分けてある。武勇に強いだけで悪逆を働く人物は、結局、時代の歴史の悪役に終始する。そういった人物の働きは、チャンバラとしてはおもしろく受け取れても、やはり人間扱いしたくない気持ちがいつの時代にも働いて当然だろう。  さらにもう一つの英雄像は、諸葛孔明に代表される。つまり、政治・経済・文化などあらゆる面にその能力をいかんなく発揮する�知謀の士�である。  そして、この知謀の士たるための条件には、絶対に�私�がないこと、�無私�であり、地位、役職を求めないということがある。また、こういった人物が成立するための基盤に、その人物の知謀に無限の信頼を寄せる統率者の存在がなくてはならない。なぜなら、いかに素晴らしい策を献じようとも、これを信頼し採用する人間がいなければ無意味だからだ。だから知謀だけしかない人間は、この物語の中でドンドン消されていく。  諸葛孔明を劉備に紹介した前の軍師に単福《ぜんふく》(徐庶《じよしよ》)なる人物がいるが、彼にしても蜀から逃げ出していく。もっともこの例は、統率者からの信頼がなかったというより、「軍師二人は並び立たず」といった原理が働いたとみるべきだろう。もし、ある所に軍師が二人寄り集まれば、お互いにいがみ合ってつぶし合うことになる。そこで、参謀総長と参謀次長というように、職分を明確化する必要が出てくる。が、『三国志』では参謀総長と参謀次長の葛藤を描くのが面倒だったのか、単福が逃げるかたちになっている。 「三顧《さんこ》の礼」の東洋的意味[#「「三顧《さんこ》の礼」の東洋的意味」はゴシック体]  さて、知謀の士・孔明が劉備のもとに軍師として招かれた時、どんな手を打ったのか。孔明が、それまで一つの秩序を形成していた蜀軍団の中で十二分にその才能を発揮するには、重臣たちの嫉妬、怨恨《えんこん》を買わないように動くことが先決であった。たとえば、重臣である関羽や張飛には思いもつかない名案を孔明が次から次へと出した場合、そう簡単に「君はできる。いや、いい人がわが軍に来てくれた」と、彼らが思うはずがない。そこで孔明は、二通りの手を打った。  一つは、なかなか丞相《じようしよう》(王を助けて国政に当たる大臣)にならなかった。客分、あるいは意見を申し述べるためのお側《そば》用人といったような役に徹し、蜀軍団の中での自分の地位が固まるまで、無私《ヽヽ》の姿勢を通した。もう一つは、有名な「三顧《さんこ》の礼《れい》」である。「三顧の礼」というのは、劉備が孔明を味方にすべく、孔明のもとに自ら三度訪ねたという故事から成った言葉で、劉備がいかに誠実で礼儀正しい君主であったかを示す例として、よく用いられるものである。  日本の社会では、今でも、この「三顧の礼」を重んじる。しかし、「三顧の礼」を採《と》った人間を誉める風潮はあるが、「三顧の礼」を採らせた人間の強引さ、傲慢《ごうまん》さを責める風潮はまずない。まことにおもしろい現象だが、考えてみれば、これが東洋的な契約の儀式であり、新しい人間関係成立のための確認の儀礼なのである。  ヨーロッパには契約の論理があり、東洋にはないとよく言われるが、契約のスタイルが違うだけにすぎない。あの時代に孔明は自らの将来を考えて、歴史的事実をこしらえたのである。「三顧の礼」は、当時としては、やはり劇的な儀式だった。孔明にとって証文を書いて証明してもらう以上に、大きな値打ちのあるものだったのである。  現代の日本でも、ある集団がかなりの大物を外部からポンと呼んでくることがある。その時、やはり「三顧の礼」とかそれによく似た儀式をやる。そして、そこには契約書を交《か》わすといった事務的な手続きとは違った、人間関係にプラスアルファーを産む知恵が働いている。  このように孔明は、「無私の姿勢」と劉備からの「篤《あつ》い信頼」を克《か》ち得ることによって、自分の地位を固め、のちに丞相《じようしよう》となる。つまり、『三国志』の中における孔明は単なる軍師ではなく、総理大臣であり、内務大臣であり、外務大臣であり、かつ陸軍大臣であるという、国政全般をあずかる地位につくわけで、その要件が「無私」と「三顧の礼」だったのである。  要するに、孔明は軍師から政治家に変貌していくわけだが、これに対して、日本の『太閤記《たいこうき》』あるいは『信長記《しんちようき》』といった物語では、軍師が丞相になったという例はない。たとえば、『太閤記』では、軍師・竹中半兵衛《たけなかはんべえ》は若くして死んでしまう。そのあとの黒田官兵衛《くろだかんべえ》も物語の世界から姿を消す。日本社会では、そうしなくては物語は発展していかない。やはり、「兵馬の権」と「知謀」を一緒に結びつけたくないという伝統が根強いからだろう。また、同じ東洋であり、農耕社会であっても、知謀の士といった人物に対する嫉妬の情、才能のある人間に対する嫉妬心は、日本のほうがはるかに深いのかもしれない。 『三国志』が日本人に教えたもの[#「『三国志』が日本人に教えたもの」はゴシック体]  また、『三国志』が日本でできた物語と決定的に違うところは、地政学の相違にある。『三国志』の世界は、北に魏《ぎ》、南に呉《ご》、西に蜀《しよく》というように、広大な中国大陸が三分割されており、世態、人情、風俗が全部違っている。つまり、そもそも日本列島とは桁《けた》が違うわけで、物語のスケールも大きく、バラエティーに富んだ内容になっている。  さて最後に『三国志』が日本人に何を教えたか。  一言で言うなら、「歴史に必然性はない」ということになる。  歴史を一本の論理で、あるいは正邪の論理で割り切ることはできない。実力は実力として生きることができる。それはもちろん、政治哲学、歴史哲学的に長い目で見れば別だが、シナには歴史哲学などなく、大義名分論、正閏《せいじゆん》論、正当論があるだけである。そしてそれは、その時の時代的あるいは風土的条件に決定される。だから、並ぶものなき諸葛孔明の知勇をもってしても、ついに目的は達成されなかった。しかし、諸葛孔明が完全に素志《そし》を貫くことができなかったというところに、『三国志』の、そして歴史のおもしろいところがあるのである。  繰り返すが、『三国志』は歴史に必然性はないと語りかけている。しかし、だからといって歴史は無秩序なものであると言っているわけではない。やはり、いろいろな最高度に能力がある人間たちが「歴史の論理」の指示するところ、あるいは正閏《せいじゆん》論、正当論のインパクトにしたがって、大いなる人間的な展開を繰り広げるのである。  しかし、それはそれだけのことである。つまり、だからといってそれが必ず勝つというわけではないという歴史の真実を、この物語はわれわれに語りかけている。しかも、歴史物語は、この『三国志』のように、一言や二言で割り切ることのできない広範な視野を持っている場合にのみ、おもしろいということができるのである。 [#改ページ] (6)思想人間・政治人間の仮面を剥《は》ぐ──『悪霊《あくりよう》』   ──予言者・ドストエフスキーが洞察した社会と人間心理の関係 政治思想小説の二大古典[#「政治思想小説の二大古典」はゴシック体]  どんなに時代が変わろうと、どこの国であろうと、文学作品の根本は、人間性についての新しい見方や掘り下げにある。  さらに突っ込んで言えば、それを二つに大別することができる。一つは、人間性一般を扱おうとする文学で、その代表はシェイクスピアだろう。シェイクスピアは、人間性のどの面の専門家だということなく、結果として三六の戯曲を書き、それが全体として人間性論、つまり、人類とは何かというテーマになっている。  もう一つは、時代が下《くだ》るにつれて、そこまで大きな投網《とあみ》を投げることができなくなり、人間性がテーマではあるが、その人間性をどういう角度、どういう側面から捉《とら》えるか、すなわち作家が自分のテーマをだんだん限定するようになってからの、局地戦による人間性発見の文学である。そして、そういった世界文学の古典の流れとして、十九世紀になると政治思想に捉えられた人間、あるいは政治思想というものを一つの表看板にする人間、つまり思想人間、政治人間を掘り下げていこうというジャンルが発生した。  そして、政治思想、あるいは政治行動と人間性というテーマをいちばん突き詰めた長編小説に二つの代表的な古典がある。一つは、アナトール・フランスの『神々は渇《かわ》く』であり、もう一つがドストエフスキーの『悪霊《あくりよう》』である。  ここでいう政治思想とは、もちろん革命思想の意味だが、エンゲルスはその流れを前後二つに分け、前半を「空想的社会主義」、後半、すなわちマルクスと自分以後の革命思想を、まことに身勝手にも「科学的社会主義」と名づけた。  革命思想の前半の流れである空想的社会主義は、言い換えると、自由、平等、博愛理論である。つまり、この世では、自由、平等、博愛という状態さえつくってしまえば、人類は永遠に時間の流れを忘れるかのような楽園に到達できる。そしてそのためには、現在あるものを完全にぶっ壊せばいい。それを行なう主体は、それに目覚めたる一部の啓蒙家であるというのが、前期革命理論、前期社会主義なのである。  それが後半になると、天才マルクスが現われ、そういう単なるぶっ壊し理論の修正を行なう。来《きた》るべき社会の状態は何であるか、それは共産主義社会である。その前段階にある社会をぶっ壊す主体はプロレタリアートであり、しかもプロレタリアートというものが、近代社会、ブルジョア社会によって必然的に生産されるのであるという、一連の連鎖的な方法論を築きあげた。 革命思想が、なぜ悲劇的かを解明した名著[#「革命思想が、なぜ悲劇的かを解明した名著」はゴシック体]  ところで、革命思想を前期、後期に分けた場合に、前期の自由、平等、博愛の思想、そして、その変革を遂行するものは、一部の目覚めた先進的な啓蒙家だという考え方があった時代の典型的な革命が、フランス革命である。そして、そのフランス革命の実態をどんな歴史家も及ばないくらいの透徹した見方で描きあげたのが、アナトール・フランスの『神々は渇《かわ》く』である。  一つの社会状態に対して根源的な不満を抱《いだ》き、それを破壊して、来《きた》るべき極楽をつくろうとする運動家たちの人間的な実態は何であるか。その猛烈な権力意識がお互いに競合しあって、相互に殺戮《さつりく》し合う。それにつれ、啓蒙家たちは最後には尖鋭な革命家になり、そして、そういった人間が、自分たちのように進まなかった者を、後ろを向いて全部殺戮していく。その結果、尖鋭なる革命家たちだけが生き残ってしまうと、今度はそれがお互いに殺戮し合う。『神々は渇く』は、まさにそのメカニズムを描いた作品なのである。  そこに登場する政治人間たちは、当初、実に純情にして、私心なく、新しい時代に憧《あこが》れる人物だった。そして、彼らのうち一方は、そういう理想主義的な、人間性豊かなままに革命家になっていく。もう一方は、カイコが蛾《が》になるように、突然、獰猛《どうもう》なる殺戮的な革命家になる。そしてその両者の間に、血で血を洗う闘争が行なわれる。  理想主義が単なるイデー、思想、理想にとどまっている限り、それは、ゆとりのある、体温の温《あたた》かみを持つ思想であるのかもしれない。しかし、それが一つの実行段階に移った場合には、より徹底した、より理想に近い形態を実現しなければならない。つまり、理想の実現形態に対していかに徹底するかという、「徹底」についての熾烈《しれつ》な闘争が展開されるのである。  すると今度は、より徹底した者は、それほど徹底しなかった、つまり、思想において遅れている者に対する猛烈な敵愾心《てきがいしん》と憎悪を抱く。また、政治理論からいって、一つの尖鋭なる改革を成そうという場合に、そこまでしなくてもいいではないかという穏健派は、改革の邪魔になり、自分たちの足を引っ張り、阻害《そがい》する者だということになる。したがって穏健派を絶滅することは、改革をより徹底させる。つまり、人類の夢を実現させるための、成さねばならぬ聖なる使命である、という確信に転化していくわけである。  革命思想が誕生して以来、世界各国で、いまだに「革命とは何ぞや」、人間が行なうところの、あるいは人間が小集団を組んで行なうところの「革命の行動とは何ぞや」、そして、「その革命行動が行き着く先の形態は何であるか」という問いかけが繰り返しなされている。だが、それに対する解答は、いわば童話的にまで透明に見通したパターンで、アナトール・フランスによってすでに与えられているのである。  アナトール・フランスは、こういう問題を生涯のテーマにした人ではなく、処女作の『シルヴェストル・ボナールの罪』などで分かるように、むしろ小市民の姿を描くことが彼の多くの長編、短編の一貫したモチーフだった。ところが、生涯にいっぺんだけ、グッとハラを据《す》え、これだけは言い遺したいというような、いわば、のちの時代へのたった一つの遺言書として書き残したのが、この『神々は渇く』なのである。  だから、冷酷な言い方をすれば、それ以後現われた革命思想、あるいは政治思想と人間というテーマを扱ったあらゆる作家たち、たとえば『動物農場』を書いたジョージ・オーウェルにしても、すべてはアナトール・フランスが築きあげたこの作品の構成原理を、ついに脱却しえなかったのである。 政治思想小説が持つ宿命的な欠点[#「政治思想小説が持つ宿命的な欠点」はゴシック体]  したがって、この問題を考える場合、われわれは、まず『神々は渇く』を熟読玩味《じゆくどくがんみ》する必要がある。ただし、『神々は渇く』にしても、これから採《と》りあげる『悪霊』にしても、作者になり代《か》わって読者に一つお詫びをしておきたいのは、今私が挙《あ》げた基本テーマだけで小説を創りあげることは、ほとんど絶望的に不可能だということだ。スタンダールがいみじくも言ったように、「文学の中で政治を扱うのは、音楽会の観客席で突然ピストルを鳴らすようなもので、その場にそぐわないぶしつけなことである」という結果にならざるをえない。  政治を小説のテーマにするということは、大変な決意と能力を要する。そこで、核心となるのは思想問題、政治問題であっても、それを小説にするためには、否応《いやおう》なしにたくさんの加薬《かやく》を入れなくてはならない、あるいは、作中人物に多少無駄な行動をさせなければならないのである。  そのため、テーマは政治思想だと思ってアナトール・フランスやドストエフスキーを読みはじめた読者は、なんだ、この小説は不純ではないか。そのテーマ一本に絞《しぼ》るだけの作家の誠実さに乏しいではないか、という不満がおそらく生じることだろう。  私自身、若い頃、どの作品を読んでも、そんな脇道にゴチャゴチャと会釈《えしやく》していないで、もっと本筋のことをズバリ言いなさいと、目の前にいない作家を叱ったり、哀訴嘆願したい気持ちになったものである。  しかし、小説という約束事の形式があり、その中にこの核心を盛り込むためには、まんじゅうの皮のように多少、いろいろな夾雑物《きようざつぶつ》で核心の思想を包まなければならない必然性がある。また、ある特定の人物のある一時期の行動の中に、政治と人間の問題を全部盛り込むことは、ほとんど不可能な難題であるがために、部分的にしかそれを盛り込むことができない。そういう問題《テーマ》としての非常な困難さが、政治を扱った文学にあるのである。 では、政治思想小説の役割とは何か[#「では、政治思想小説の役割とは何か」はゴシック体]  だから、逆に言うと、政治思想、あるいは革命理論というものに突き動かされている人間の落ち着く先の、まことに冷酷無残な姿は、煎《せん》じ詰めれば、ほんの短いエッセー一つで済んでしまうわけである。おそらく原稿用紙四、五〇枚ぐらい、いくら長くても『論語』一冊分ぐらいで書き上げてしまうことができるだろう。  しかし、そういうエッセーのかたちで書いた場合には、初めから政治的人間というもののいかがわしさに対して、多少のカンを持っている人しか同感してくれない。つまり、理想主義に共感し、燃え上がっている人物に対しては、いくらエッセーで述べたところで、まったく馬耳東風《ばじとうふう》ということになってしまう。  だから、この場合に、論理の奥底は明確に分かっているにもかかわらず、読者の情念のさまざまな角度に訴えるために、いろいろな手練手管《てれんてくだ》を用いる。つまり、話術、説得、あるいは伝達の方法としての小説形式というものに依存せざるをえない。そこで、必然的に、どの作家が描いても、おそらく見方によっては夾雑物《きようざつぶつ》の多い、あるいは芸術至上主義的な立場からすると、作品としての出来上がりが不充分となる。つまり、渾然《こんぜん》一体とした完成感というものが感じられないわけである。  しかし、われわれは何もここで芸術学の観点、美学の観点、あるいは小説方法論の観点から古典を研鑽《けんさん》しようというのではない。  現代人として、われわれがそこから何か汲み出すものがあれば、その作品にはプラスの価値がある。また、いかに当時の社会において、あるいは当時の文学、言語状況の中で立派なものを創ったところで、たとえば『カンタベリー物語』のようにイギリス文学の古典となっていようとも、現在、われわれが読んで心琴《しんきん》に響くところがあまりにも少ないものは、ここでは古典と考えない。私は、そういうわがままな方針を貫いてきた。  そこでそういう観点から、私は、ドストエフスキーの代表作として、『悪霊《あくりよう》』を採りあげてみることにする。 内ゲバ殺人事件に飛びついた文豪[#「内ゲバ殺人事件に飛びついた文豪」はゴシック体]  さて、この『悪霊』という小説は、ドストエフスキーがある事件を聞いて、それまで彼が世の中に対してふつふつと沸《わ》きあがっていたイデーを、一挙に長編に仕立てたもので、いわばたいへん時局的な小説である。  これは歴史上、きわめて有名な事件なのだが、モスクワ大学の学生で、ネチャーエフという男がいた。彼は当時の過激な革命思想に駆《か》られて、いわゆる五人組という、のちの細胞組織のようなものをたくさんつくり、ロシア社会を転覆《てんぷく》しようと考えた。  だが、本当に転覆できると思っていたかどうか、また、どこまでまじめに考えていたかは分からない。ただし彼は、こういう秘密結社的な非合法組織の行動原理を創りあげた人物なのである。つまり、成功の保証はまったくなく、最悪の場合には、自分の一生を完全に棒に振らなくてはならないような組織の結束を高めていく唯一の方法は、みんなが一緒に手を汚すこと以外にないと悟《さと》り、そういう行為をやってのけた最初の人物だったわけである。こういった一蓮托生《いちれんたくしよう》方式は、わが国でも、時をおいては現われた古典的な形態だが、資料で知りうる限りでは、ネチャーエフが最初にこれをやってのけたのである。  一八六九年十一月二十一日、ネチャーエフの指揮のもとに、秘密結社の仲間がイワーノフという学生をスパイだとして殺し、池に放り込んだ。そして一味は捕まえられ、七〇年七月にペテルブルグで裁判にかけられた。  この事件を聞くなり、ドストエフスキーは、「これだ!」と飛びついた。『悪霊』では、舞台をロシアの首府モスクワから田舎町に移し、人物の名前も変え、補助的な人物を登場させているが、とにかく一貫してネチャーエフ事件がこの長編小説の中心になっている。  ただし、これはドストエフスキーのドストエフスキーたる所以《ゆえん》だが、それと対照的な、より古い時代の甘っちょろい理想主義者を創作した。モデルはグラノフスキーという人物で、それが作中ではステパン・ヴェルホーヴェンスキーとなり、この作品の中で、事実上いちばんよく活躍し、人間としてもいちばんよく描かれた、最も印象に残る人物である。 革命家とは何ぞやを説き明かす[#「革命家とは何ぞやを説き明かす」はゴシック体]  それからもう一人、ツルゲーネフをモデルとした田舎町に流れてきた文豪が出てくる。ドストエフスキーはツルゲーネフに対してまことに激しい憎しみ、憎悪、嫉妬感を持っていたため、ここで精いっぱいツルゲーネフを諷刺する。  温厚なツルゲーネフもこれにはさすがに激高《げつこう》し、以後、二人は生涯絶交することになったわけだが、そういう、いろいろな副産物はあるにしても、この本のいちばんの根本には、革命家とは何ぞやというテーマが流れている。  そして、その革命家像を担《にな》うのが、一人はスタヴローギン、もう一人がキリーロフ。この二人は想像の産物だが、この連中に果てしなき文学的、哲学的、政治学的議論を交《か》わさせるというかたちで、作品は進行する。 『悪霊』は、先記したように全体の脈絡が統一されておらず、登場人物の描き方もたいへん偏頗《へんぱ》であり、長編小説としては実にぶざまなところがある。多少とも人間像が多面的に描かれているのはステパンだけで、いちばん大切なはずの登場人物であるスタヴローギンなどは、これが作中人物、主人公と言えるのかと言いたいくらい、その人間像は描かれていない。それ以外の人物も大同小異で、それぞれに割り振られた人間性の一面、たとえば意地とか虚栄心といったものの化け物みたいに、神経をとがらせ、ピリピリしながら激突ばかりしている。  ところで、ドストエフスキーは、作中人物の口を通して自分の言いたいことを、いろいろわめき出すことの名人で、たとえば、こういう一節がある(江川卓訳、新潮社版ドストエフスキー全集、上巻の八六ページ)。 「よくある例だが、久しい間深遠きわまりない思想の持ち主とあがめられ、社会の動きに対して真に重大な影響を与えうると期待された作家が、最後には、その根本思想の貧困さ、つまらなさを露呈して、彼の才能がはやばやと枯渇《こかつ》したのを誰ひとり惜しもうとしないといったこともある」  つまり、ドストエフスキーが心中いちばん敵対視していたのは、社会の動きに対して、その社会の奥底をえぐり出すというような建て前の、根本思想やイデーを振り回している作家たち、たとえば、ツルゲーネフやチェヌルイシェフスキーなど、当時のロシア社会で影響力のあった連中に対してであった。しかし、おもしろいことに、この罵《ののし》り方を見れば、ドストエフスキー御自《おんみずか》ら、実は自分は根本思想を見い出した大人物であり、それを皆に語って聞かせるのだと宣言しているのが、よく分かる。  すなわち、彼自身、自分が単に風景描写とか、あるいは市民社会の一面とか、そういうことをおっとり書くような作家だとは思っていないわけで、ロシアとは何か、ロシアにおける宗教とは何か、ロシア的現実とは何か、ということについて、つまり根本思想というものを作中に描こうとしたわけである。そして自分以前のヤツらは全部、そういう触込みであるにもかかわらず、実態はまことにおそまつで貧相である。それに対して、自分だけが初めてロシア的現実の岩盤にメスを入れたと言いたいわけである。だからこれは、自分こそ本当の思想的作家であるという、自分自身による一つの宣言と受け取ってよい。 理想主義者に向けられた諷刺と嘲笑[#「理想主義者に向けられた諷刺と嘲笑」はゴシック体]  たとえば、上巻の一五〇ページに、こういう一節がある。 「この≪あすという日≫、つまりステパン氏の運命が永遠に決せられるべき例の日曜日は、私の物語のなかでもとくに重大な意義をもつ日の一つである。それは意想外の出来事が続発した一日、以前からの謎《なぞ》が解けて、新たな謎が結ばれた一日、さまざまなことが一挙に解明される一方、さらにいっそうの混乱が生れた一日であった」  ドストエフスキーを読み慣れた方は、「またか!」と思われるような一節だろう。つまり、ドストエフスキーの全作品は、すべてこういう大変な明日という日、決定的な日、例の何とかの日、そして、そこに期せずしてたくさんの人間、重要な人物が全部集まって、そこに予想外の出来事が生じ、突然ある人がそこに入ってきて、まったく予想しなかったような言葉を吐き、それに全登場人物が愕然《がくぜん》とし、また、そこである女性が突然ヒステリーを起こし、というような、いわば演劇仕立てになっている。そして、そういう仕立てによって、ドストエフスキーはこの『悪霊』で、一つはステパンに代表されるような古いかたちの理想主義者の甘さ、自惚《うぬぼ》れ、無責任、さらに社会の良心をもって任じているところの内容空疎な�ええかっこしい�、そういうスタイルに対する一貫した諷刺、嘲笑をやったのである。  この点において、ドストエフスキーは至れり尽《つ》くせりであって、たとえば、ステパンが登場してきて、すぐに現われる表現は、「(要するにステパン氏というのは)、実のところ、たんなる亜流でしかなかったし、そのうえ、しょっちゅう立ち疲れしては、ごろりと横になってしまうことが多かった。だが、横になってはいても、生ける良心たるゆえんは横臥《おうが》の姿勢なりに保たれていた」というものである。  これは理想主義者に対する実にうまい表現であり、現代でも、わが国にたくさん存在する輝ける理想主義者たちは、全部立ち疲れして、横臥の姿勢の中にその良心を保っているようである。これは、誰が見てもすぐに具体的な人物が思い浮かぶほどの言い方であろう。  それから、たとえばこういう一節もある。 「彼は連名の抗議文にも二、三、署名を求められて(何に対する抗議なのかは、本人もよく知らなかった)、言われるままに署名した」  何か知らんが、いたって進歩的な署名運動があって、それに対して署名をしないと遅れている人間であるかのような、あるいは卑怯な人間であるかのように思われるのが恐くて、あわてて署名をし、ホッと胸をなでおろす。同時に一抹の恐怖感を持つ。もっと鈍感な人間は売名行為のつもりでいる。これが、いわゆる進歩的知識人像というものだろう。  それから、女性運動家たちに対しては、 「万事が本の請売《うけう》りで、首都の進歩派筋からほんの噂《うわさ》でも流れてくれば、たちまちその勧めを実践して、手あたりしだい何から何まで窓の外へほうり出しかねないほうなのである」  あるいは自由思想のグループに対しては、 「私たちはそれこそなんの罪もない、愛すべき、純粋にロシア式の、楽しくリベラルなおしゃべりにふけっていただけなのである。≪高度のリベラリズム≫と≪高度のリベラリスト≫、つまり、なんの目的ももたないリベラリストは、ロシアにだけ見られる現象である」 「ロシアにだけ」というのはドストエフスキーの口ぐせだが、これはロシアにだけでないことは、誰にでも分かることだろう。  そして、結局、理想主義者たちが目指すことは、「未来の、≪世界人類の社会主義的ハーモニー共和国≫」にすぎないという皮肉な言い方をする。  しかも、この連中が、リアリスティックな女性からいつも最後に言われるのは、 「だって、あんなこと、ただの口先だけのおしゃべりじゃありませんか」  実際、そういう表現に値《あたい》するような連中ばかりで、ことに首都から相当遠い田舎町に場所を設定してあるため、よけいおしゃべり族のコミックな姿が目に浮かんでくる。 理想主義者と革命家との決定的な違い[#「理想主義者と革命家との決定的な違い」はゴシック体]  モデルになったネチャーエフは『革命家の教理問答』(カテキズム)という本を書き残しているが、『悪霊』に出てくるピョートル・ヴェルホーヴェンスキー(モデルはネチャーエフ)がしゃべる内容は、ほとんどこの『革命家の教理問答』に出てくる台詞《せりふ》である。  もちろんドストエフスキーは、それを信用してはいない。もしそれを信用し、同感したりする立場であれば、初めから『悪霊』という作品は誕生していない。  そこで今度は、この新しい思想に対して疑いを持つステパン氏に、こう言わしめている。 「しかも、それというのがまたしても例の月足らず、感傷癖のせいなんですよ! あの連中は社会主義の現実性《リアリズム》ではなくて、その感傷的な理想主義的な側面に惹《ひ》かれているんですね、言うならば、その宗教的なニュアンスとか、そのポエジーとかに……むろん、それも他人の請売《うけう》りで」  建て前上の革命思想が持っているある種の魅力、人を惹《ひ》きつける側面を、ドストエフスキーは一貫してこの点に見い出している。 「『ぼくの感想だがね』と、ステパン氏はそのころ私にだけもらしたことがあった。『どうしてまた、あの熱狂的な社会主義者、共産主義者という連中が、その一方では揃《そろ》いも揃って信じられないほどのけちん坊で、業《ごう》つくばりで、私利私欲のかたまりなんですかね。しかも、その人間が社会主義者であればあるほど、その度が進めば進むほど、私利私欲の程度がひどくなっていくくらいだ……これはどうしてですかね? これも例の感傷癖から来るものなんだろうか?』」  ここに、いよいよ問題の核心が出てくる。つまり、古いかたちの理想主義者は、それこそ立ち疲れして、横に寝ていて、その姿・格好だけをプライドにしているのだから、方法論がない。それに対して、この作中の主人公たちは、政治の転覆まで考えたかどうかは明確ではないが、ともかく何事かを成さんとしている。その場合、そのやり方のスタイル、方法と、もしそれに成功した場合にどうするかということについての、少なくとも意識としての見通しがともなっている。それに対して、ステパン氏は「私利私欲のかたまり」という見方をする。  つまり、これが理想主義的な社会主義者と、現実主義的な、一つの革命のテーゼを持った社会主義者たちを峻別《しゆんべつ》する、ひじょうに大きな相違点なのである。つまり、何事かを起こそうとしている急進的な世代は、自分たちが権力を握るということを暗黙の大前提にしているわけである。  古い世代から見ると、その一点が「私利私欲のかたまり」に見える。実際には実行する気がまったくない古い世代の空想的な理想主義者の生きがいは、自分が置かれている、まことに厭《いと》うべき現世の中で、自分たちはごく選ばれたる知的優越者だと思い込み、「この世はいけない、これではよろしくない」と言って、穏やかに啓蒙的な姿勢を取るだけである。だから、彼らには、実際上、世の中が変わってくれては困るという暗黙の意識が底にある。 革命家の説く楽園とは何か[#「革命家の説く楽園とは何か」はゴシック体]  そういう甘ったれの、無責任な、叙情的な社会主義思想からすれば、実行をともなおうとする世代は、実際に自分たちが意識のいちばん奥底では肯定している�この現世�を引っくり返そうとしているわけだから、彼らに対して警戒心を抱《いだ》かずにはいられない。  また、もしそれが引っくり返された場合には、その急進的な、過激な連中が指揮権《ヘゲモニー》を握るのだから、そういうことを意識している人間と、それを考慮に入れていない人間との間には無限の差が生じる。それをステパンは「私利私欲」と呼ぶわけである。  すると、急進的な過激な考え方の連中は、最後にどういうことになるか。ドストエフスキーはひじょうに極端な戯画化を試みる。下巻の二二ページの一節でドストエフスキーは、シガリヨフという人物が書いた内容を別の人間が要約するというかたちを採《と》っているが、実際はドストエフスキー自身が、次のように主張している。 「私は彼の著書を知っています。彼はですね、問題の最終的解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫《てんしんらんまん》さに到達すべきだというのですよ。これはいわば原始の楽園ですな、もっとも、働くことは働かなくちゃならんが。人類の十分の九から意志を奪って、何代もの改造の果《はて》にそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案しておられる方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです」  実にきつい言い方だが、これをドストエフスキーのまったく荒唐無稽《こうとうむけい》な妄想であった、と言い切ることが誰にできるだろうか。  つまり、急進的な革命思想においては、その担《にな》い手、のちに言うプロレタリアートの前衛──誰が前衛と認めているのかというと、その前衛が自分で認めているだけのことだが──の決定が最終的、絶対的に正しいとされる。こののち、ドストエフスキーの祖国であるロシア、ソ連において行なわれたこと、あるいは、それをモデルにして世界の各地に輸出された社会主義的なあらゆる社会構想は、煎じ詰めれば、この姿を採《と》る。しかも、これが現実のものとして明らかにされた現在、この言葉を読み直すと、私は慄然《りつぜん》とせざるをえない。 社会主義思想の末路を的確に予言[#「社会主義思想の末路を的確に予言」はゴシック体]  モスクワ大学のわずかな与太者学生のグループの内ゲバ、普通の人間からすれば、些細《ささい》な風俗的現象にすぎないものから、その向かう先の矢印を見い出し、拡大し、論理的に展開した場合に、そこに必然的に現出された考え方が、いかにプリミティブなかたちであろうとも、実際に発生しているではないか。  こういう考え方がいかに原始的であれ、潜在するからこそ、目の前にあるネチャーエフ事件が起こったんだと考えついたドストエフスキーの閃《ひらめ》きは、やはり恐るべきものである。  あるいは、下巻の七七ページにこういう一節がある。 「私が言うのは、いわゆる≪先駆的な人々≫のことではない。彼らはつねに抜けがけを心がけてはいるが(これが第一の関心事だ)、たいていは愚劣きわまるものだとはいえ、多少とも明確な目的をもっている」  そういう一部の先駆的な人びとは、まず国民全体の中の抜けがけ的存在であろうとしている、という心理的な洞察である。これは、同時にその抜けがけ的存在の中における、さらに抜けがけでなければ意味がないという二重構造になる。  そして、その連中は、「多少とも明確な目的をもっている」。ただし、ドストエフスキーは、「たいていは愚劣きわまるものだとはいえ」という注を付けている。ところが、問題はその次だ。 「そうではなく、私が言うのは、ただのならず者にかぎられる。どの社会にもいるこのならず者は、過渡期となればかならず頭をもたげ、なんの目的もないどころか、思想の片鱗《へんりん》すらもたないくせに、ただもう身をもって不安と焦燥を表現しようと躍起《やつき》になる。それでいながらこの種のならず者は、ほとんどの場合、自分でもそれと知らずに、特定の目的を持って行動している一にぎりの≪先駆的な人々≫の指揮下に入ってしまい、この一にぎりの人たちは、よくよくの無能者ぞろいでないかぎり、いや、そういうこともよくあるのだが、この塵芥《ちりあくた》のような有象無象《うぞうむぞう》どもを、自分の思いどおりにあやつるのである」そして、「およそ屑《くず》の屑のような連中がふいに幅をきかせはじめ、以前には口を開くこともようしなかった者たちが、あらゆる神聖なものを声高に批判しはじめた」のだ。  そうすると、「それまで平穏無事に、自分たちの地位を守っていた第一流の人たちが」急にやかましく騒ぎ出したならず者たちの、どこかの本から借りてきたような大義名分の絶叫に、「急に彼らの言うことに耳を傾け、自分たちは沈黙してしまったのである。中には恥知らずにも追従《ついしよう》笑いをする者さえあった」、これはもう大学紛争の漫画であり、市民運動の漫画ではないか。  かつて日本全国を風靡《ふうび》した大学紛争における運動家たちと教授たち。黙ってしまった教授たち。一生懸命|相追従《あいついしよう》した連中。それから、その時々に応じていつでも相追従はするが、ほとぼりがさめたらスッと元に戻れるような逆艪《さかろ》をちゃんとつけていた賢明な連中。たとえば江田五月は知事に立候補したし、多くの市民運動家は政治家に転身している。日本列島を大声で縦断して回る連中の姿は、とうの昔に、ここで描かれているのである。 予言者ドストエフスキーの秘密[#「予言者ドストエフスキーの秘密」はゴシック体]  要するに、ドストエフスキーが言いたいことは、 「『そんなことがあるものですか、ピョートル・ステパノヴィチ。社会主義はそれこそ偉大な思想ですもの。ステパンさまだってそれはお認めになるはずですわ』ユリヤ夫人がむきになって弁護した。『思想は偉大ですが、その宣伝者がかならずしも偉大とはかぎりませんね。コノヘンデ・ヤメテオコウヨ・オマエ』」  そして、最後に、その偉大かどうか分からない革命家たちは、いったい何であるのか。 「デモクラート(民主主義社会)をめざすアリストクラート(貴族階級)なんて、こいつは魅力的じゃないですか」という、まことに皮肉なセリフも登場する。  まだまだたくさん出てくるが、以上に紹介したような話で、それ以来、世界のどの国家、どの民族でも行なわれたであろうあらゆるパターンが、だいたい予言的に言い尽《つ》くされている。ゆえに、予言者ドストエフスキーという伝説が生じたのである。  したがって、今私がピックアップして述べたようなことは、ドストエフスキーを読んでいる者にとっては、昔から百も承知の�常識中の常識�であり、何をいまさらと、専門家たちからせせら笑われることは覚悟のうえである。  しかし、ここで一つ注意しておく点がある。それは予言者という言い方、つまり、ある天賦《てんぷ》の、人知をもって計《はか》り知ることができないような能力を持った人物が、その特定のインスピレーションによって、それから先のことを予言するというような言い方でドストエフスキーを崇《あが》めたり、あるいは絶対化する必要は、まったくないという点である。  われわれは天才の頭脳の内部を分析する力を持たない。レオナルド・ダ・ヴィンチが、いかなる理由であれだけの知的に高度な水準に達したかということが永遠の謎《なぞ》であるように、ドストエフスキーがここで、どんなものの考え方で、どんな連想力を発揮し、自信を持ってこういうことを述べたてたのかという、彼の発想の根本について知ることはできない。  同時にまた、ドストエフスキーを読んで、感動のあまり、自分もまた予言者気取りになり、ドストエフスキー流に、今後半世紀あるいは一世紀先の世界を予言してみようというのは、一杯飲んでのサロンの会話としてはおもしろいかもしれないが、まったく無意味である。  つまり、ドストエフスキーの予言が的中したかどうかは、この場合、われわれ一読者の重要な問題ではないのである。これは、たまたま的中したのかもしれない。あるいは、ドストエフスキーのように作家としての仕事をしていなかった多くの沈黙してきた知識人、思考者たちも、ここまで明晰《めいせき》な言葉にしないまでも、こういう考えを持っていたのかもしれない。  ただ、もしドストエフスキーが偉大であるとするなら、将来、そのような事態が展開するかどうかという不確実性や、それに対する不安をさておき、いわば自信を持って、こうなるだろうと言い切った点にある。  さらに、人類史上に初めて現われたものの考え方、思考形態というものの本質はこうだという、自分の一つの信念にまで達した分析を、少数意見であることをあまり意に介さず、小説の中に堂々と表現したところにある。この人間的な信念の強さ、度胸、その表現力に対して、われわれ現代人は、やはり感動せざるをえないのである。 [#改ページ] 第3章 人間通《にんげんつう》になるために   ──人間性に潜む�本質�を読み取る秘密 [#改ページ] (1)「あたたかい心」と「やさしい心」──『チャタレイ夫人の恋人』   ──ロレンスが明かしたセックスの到達点にあるもの 性の思想家、D・H・ロレンス[#「性の思想家、D・H・ロレンス」はゴシック体]  ロレンスは必ずしも小説の名手ではなかった。彼はあえて類別するなら思想家の一人に数えるべきであろう。すなわち、人間性とは何かという問題について、具体的に考えをめぐらす人であった。『チャタレイ夫人の恋人』は、渾然《こんぜん》たる名作というわけにはいかないけれど、彼のなかにおける個性的な思考遍歴に、ひとまず区切りをつけた卒業論文である、とでもひとくちに評すれば、作品としての存在理由を、言い表わしたことになるであろうか。  彼がさまざまに思案をめぐらした末、ようやく至りついた究極の眼目は、男と女にとっての性交が意味するところは何かという問題の会得であった。この永遠なる課題をめぐって、ロレンスがわれわれに語りかける示唆《しさ》は、年月を経てもいっこうに古びることはない。この点をおそらく最初に指摘したのは、福田恆存《ふくだつねあり》の昭和二十二年に発表された次の一節であろうと思われる。 「かれが『チャタレイ夫人の恋人』の終末において到達した救いは、もはや激しい情熱ではなく、『あたたかい心』『やさしい心』であったことを想い起《おこ》すがよい」(『福田恆存飜訳全集』二巻、文藝春秋、三九ページ)  ここに要約されているように、「あたたかい心」「やさしい心」こそ、性の出発点であり、かつまた到達点であったのではなかろうか。 『チャタレイ夫人の恋人』第十九章には次のような件《くだ》りがある。 「『教えてあげましょうか』彼女は彼の顔をながめながら言った。『他の人が持っていなくて、あなただけ持っているものを教えてあげましょうか? それがまた未来を作るものなんですわ』 『じゃ教えてくれたまえ』と彼が答えた。『それは、あなた自身の、思いやりのある優しさから生まれる勇気というものよ(It's the courage of your own tenderness)。それなのよ』」(伊藤整訳・新潮文庫、四三四ページ)  それに答えるかのように、メラーズはこう述懐する。 「正しい男性的なしかたでの自然の肉体的思いやりは、男のあいだでも最上のものなんだが。男性をして真に男性たらしめ、猿《さる》のようであってはならないのだ。そうだ、それは優しさなんだ。それはただあの|もの《ヽヽ》の認識なのだ。セックスはあらゆる接触の中でのほんとの唯一の接触なのだ(Sex is really only touch,the closest of all touch)。そしてわれわれが怖れているのもその接触なのだ(And it's touch we're afraid of)。われわれは半分自覚して半分生きているだけだ(We're only half─conscious,and half alive)。われわれは生き生きと、そしてはっきりと認識しなくてはならない(We're got to come alive and aware)」  男も女も、たしかに一方では性交を強く望んでいる。体の奥底から衝《つ》き上げられるような欲望にかられて性交を欲し、絶えず満足のゆく性交を夢みて、充分な性交に飢《かつ》えていることは間違いない。それは人間の本性に基づく疼《うず》きであって、それ自体なんらやましいことではないはずだ。  しかし一方においてはまた、男も女も、性交に怖れの気持ちを抱いているのだから問題はかなり厄介となる。こればかりは何しろ相手の要《い》ることだから、それゆえ、ひとしお努めなければならないからである。その間、ままならぬ混み入った事情に深く思いを潜《ひそ》め、ロレンスは人びとに悩みを解決する方法を伝授しようと考えたのである。ロレンスはまことに真剣な、そして限りなく親切な、性の思想家として立ち現われたのであった。 人間に与えられた�完全に公平なもの�[#「人間に与えられた�完全に公平なもの�」はゴシック体]  よく、人生は不公平だ、という歎きの声を聞く。その悲しみは、必ずしも一方的な妄想とは言えないであろう。事実の問題として、人生には、どうしても、運、不運、がつきまとう。どうやら自分は運が悪いのだ、とあきらめざるをえない局面が待っているかもしれない。  しかし、世には、いかなる運、不運にも見舞われないものがある。どんな苛酷な運命にも左右されないものがある。絶対に平等なものがある。一人ひとりの人間に、こればかりは例外なくおしなべて、根底から根強く、公平に与えられているものがある。不平の言いようもない普遍的な贈りものを、われわれは生まれながらに頂戴している。このことに対しては誰ひとり文句が言えないはずだ。  人生に与えられている完全に公平な条件、それは、時間と、食欲と、性欲と、である。思えば人生は根本的に平等なのではあるまいか。  考えてもみよう。どんなに強引な辣腕《らつわん》家だって、自分一人だけ一日に二五時間を獲得することはできない。ここには運、不運が入り込む隙はないのである。一人ひとりの人生行路に自ずから生じる隔差は、一日二四時間をどれだけ充実させるか、その絶えまない努力のいかんにかかっている。一日の時間の過ごし方、それはすべて自分の責任によって決まる。  同じように、万人に平等に与えられている食欲を、いかにして充実させ満足を味わうか。これまたすべて、おのれに発し、おのれに終わる問題である。高価なご馳走ばかり食《く》うことが幸福なのではない。世の中で最も美味《おい》しい食事は、自分で納得のゆく仕事を果たして健康な空腹を覚えたあげく、飛びつくように食《く》らう粗餐《そさん》であるかもしれないではないか。飽食《ほうしよく》が至福であるとは言えないこと自明の理である。  以上二つの贈りもの、すなわち時間と食欲については、深く思いを致さねばならぬほどの問題ではないであろう。しかし、性欲についてだけは、いろいろ考えなければならぬ課題が待っている。  とは言うものの、まず第一に、性欲の満足、性の喜び、これまた万人に平等に与えられている幸福であることに、まず感謝すべきであろう。  人間の文明が現代にいたるまで発展した理由については、うんざりするほどの議論がなされてきた。しかし、その大前提として、人類が両性動物であるからこそである事情を忘れてはなるまい。単性動物、自己生殖動物には進化の因子がないのである。男がいて、女がいること、人間の社会は何と素晴らしい光景ではないか。  しかし、そこから先にいろいろややこしい問題が生じる。時間の処理は一人でできる。食欲の処理も一人でできる。けれども、性欲の処理は、|自  慰《マスターベーシヨン》はいちおう例外に考えるとして、性欲の処理ばかりは一人でできない。ここから人間の悩みがさまざまに発生する。  かつて、性の啓蒙家であった高橋|鉄《てつ》の伝記を書いた私は『悩まざりし人ありや』(太平書屋)という書名を選んだ。しかり、性の問題について、いまだかつて、悩まざりし人ありや、なのである。しかし今の場合はあえて問題を限定し、すでに配偶者を得た一組《カツプル》、すなわち入籍の有無を問わないが、恒常的な性交の関係を結ぶことができる一対《カツプル》に話を絞《しぼ》って検討を進めるとしよう。 性における�一方通行�の問題点[#「性における�一方通行�の問題点」はゴシック体]  これはあくまでも推測にすぎないが、人間の長い歴史を通じて、男が自分勝手に性欲の満足を得るという行動形態が、長く広く見られたのではなかろうか。すなわち、おのれが自由にできる膣《ちつ》を確保し、欲するがままに男根《ペニス》を挿入して勝手に動いて摩擦し射精する。それによって女が快感を覚えるかどうかについては一切関知しないという一方通行である。  これは余談だが、『スカートの風』(三交社)で知られる韓国の女性著述家・呉善花《オソンフア》さんから直接聞いた話だが、日本の中年男性が居酒屋で女性の性感をいかに高めるかの情報交換をたえずやっている光景に、彼女はカルチャー・ショックを受けたという。韓国での関心事は、もっぱら女性が男性の性感を高めるためのテクニックの習練であり、そこには、性の享受者はもっぱら男性に限られるという常識が、現在においても韓国社会に支配的だという事情があると、彼女は分析していた。  では、日本はどうなのか。近い例を採《と》るなら、わが国の近世期、性を禁忌《タブー》とする意識の強かった武士階級においては、膣を単なる道具と見做《みな》す風潮が、もちろん例外はあったにせよ、むしろ通常であったのではないか。女が性交によって多少とも興奮するなど、あるまじきふしだらであると教えた訓戒の書さえ伝えられている。その点、いつの時代においても、こと性に関するかぎり、下層階級のほうがつねに解き放たれており、より自由に、男と女とが交歓していたと考えられる。いや、必ずしも近世期に限らない。明治、大正、昭和戦前期においても、似たような一方通行の事情があり、それが現代にも尾を引いていると見てよかろう。  理由は簡単である。既婚者の場合、夫にとっては、妻が単に膣という道具を、いつでも嫌がらずに提供するという習慣こそ、つねに最も望ましいのである。女が性交によって達しうる奥深い喜びの領域があることを妻が夢にも知らず、夫婦関係とは、夫の好きなようにさせることだと観念している妻ほど便利重宝なものはない。  論語の百九十三章に、「子|曰《いわ》く、民は之に由《よ》らしむべし、之を知らしむべからず」と記《しる》されている。ここは、宮崎|市定《いちさだ》(岩波書店『論語の新研究』二四二ページ、全集四巻二七一ページ)が記しているように、「子曰く、大衆からは、その政治に対する信頼を贏《か》ちえることはできるが、そのひとりひとりに政治の内容を知って貰うことはむつかしい」という意味である。つまり、この場合の「可《べ》し」「可《べ》からず」は可能、不可能の意なのだが、一部の人たちは昔から孔子の言葉をねじまげて、「民に知らせてはいけない」と言っているのであるとわざと曲解し、儒教批判の論拠とする場合もあった。 男にとって「性生活の理想」とは[#「男にとって「性生活の理想」とは」はゴシック体]  この曲解の例になぞらえて言うなら、夫は、妻が単なる道具として従順であるようにしつけておき、性交によって女がどれほど悦楽の深さに達しうるかを体感しないように知らさずにおくべきだ、という考え方が、今でも男の世界ではけっこう通用しているのである。  それもいちおう無理のないことなのだ。女を本当に喜ばせるには、それ相当の手数《てかず》がいる。一働《ひとはたら》きも二働《ふたはたら》きもしなければならない。ごくたまにだったらそれもまた一興であるにせよ、年がら年中、いつもいつもそれを要求されたら煩《わずら》わしくてたまらない。昔から、疲れたら勃起する、と言いならわす。頭脳労働は性欲を減退させるのに反して、肉体労働は性欲を昂進する。また肉体労働というほど体を動かしたのではなくても、仕事で神経が疲れたときにもやけくそのように兆《きざ》す場合が多い。  ある種の男を指して、上《あ》がり框《かまち》、と呼ぶ。野良仕事から帰ってきて、あわただしく台所の妻を呼びよせ、座敷に上がるいとまもなく、板の間に押し倒すほど性欲が強い、という意味であるが、いずれにせよ、男は時によって急にせわしなく果たしたい場合がある。そんなときに前戯もへったくれもないであろう。  また、自家用は淡白であるほうが万事に心易い。女房は米の飯《めし》の味、と言う。あるいはまた、お茶漬の味、と言う。あっさりとしたところがよいのである。三度、三度、料理屋の膳《ぜん》を据《す》えられたら鼻につく。しかし、時にはこってりした濃密な味も欲しい。そのために花柳界が生まれたのである。男にとって性生活の理想は二筋道を行くことである。わが家には貞淑で温和な妻がいて、お嬢さんがそのまま年を取ったようにおっとりしており、夫の随時の要求に応《こた》えるのを女の務めと考え、それ以上に何かを要求する気配もない。お櫃《ひつ》にいつも御飯が用意されていて、気が向いたときに茶漬をかっこむことができる、という調子である。  昔から妻は夫より先に寝るものではないと訓《さと》されてきたのは、もちろん男に寝顔を見せないという容色上の嗜《たしな》みでもあるが、それよりも、夫が寝に就《つ》くとき、ふと要求すれば必ず応えることができるように待っていなければならない、という意味のほうが大きいであろう。そしてお惣菜《そうざい》に飽きを覚えて、たまに濃厚な味が欲しいときには、馴染《なじ》みの芸者のもとへ遊びにゆく。万事めでたしめでたしである。 男たるもの、油断は禁物[#「男たるもの、油断は禁物」はゴシック体]  しかし男性諸君にはまことにお気の毒ながら、今の世はすでにそういう都合のよい工合にはいかなくなっている。  第一に、性をめぐる情報がかぎりなく巷《ちまた》に氾濫し、昔風のお嬢さんなどどこにも見当たらなくなった。女があまねく性への渇望《かつぼう》を自覚するようになったのである。括弧《かつこ》つきの、いわゆる「知らしむべからず」はもはや通用しなくなった。ちゃんと大切に扱われなければ、女が公然と不満を表明するのが、現代の特色であると覚悟しなければならない。  第二に、昔と違って、そういう目覚めた女性の相手になってくれる情事《アバンチユール》の候補者が、手軽に見つかる時代となっているのである。これも時代の成行きのしからしむるところであって、流れを押しとどめることはできないであろう。  ある一流大学の教授で、若くしてその名を謳《うた》われて順風満帆《じゆんぷうまんぱん》の日々を送る男がいた。夫婦とも学者の家に育ったお坊ちゃん、お嬢さんであったらしい。二人は飯事《ままごと》のような夫婦生活を送っていたものと思われる。そのうち無聊《ぶりよう》の妻がテニス・スクールに通いはじめた。周知のように、この種の有閑《ゆうかん》夫人を集めるスポーツ練習場には、まともな教師と共存のかたちで、情事のお相手を務めるための誘惑男《ジゴロ》を置いている。  そのうちの一人が教授夫人に目をつけ、腕によりをかけて蕩《たら》し込みに努めた。天下に有名な男の女房をこっそり食べて、ひそかに教授の鼻をあかす気分はまた格別である。夫人はたちまち陥落した。そしてこのとき初めて女の喜びを知ることができたのである。彼女は一大決心をした。夫も子どもも何もかも捨てて、その色男《ジゴロ》と一緒になるべく家出した。閉口したのは悪戯男《ジゴロ》である。世間に名の通っている恰好のよい教授の妻だから、陥《おと》して楽しかったというもの、その女がすっぽんぽんの丸裸で飛び出してきたのでは、もはや三文の値打ちもない。もちろん冷酷に突き放した。女は窮して立往生である。  そこで教授は、過ぎたことは問わないから家に帰ってくれと招き寄せた。通常なら元の鞘《さや》におさまって一件落着であろう。しかし女は戻らなかった。恥を知ってのゆえであろうか。もちろん、それもあるだろう。と同時に、夫を深く怨《うら》んだからではあるまいか。  この夫と、もし平穏無事な生活を送っていたら、ついに生涯、自分は女として当然味わうことのできる喜びを、知らずに終わる結果となったはずだ。女の一生を、あたら空《むな》しく棒に振ることになったではないか。この恨みはよほど深く心の奥底にわだかまったように推察される。以上はほんのささやかな一例であるが、広い世間には、今も似たような破局が、あらゆる方面で起こりつつあるように思われる。このご時勢においては、男たるもの、油断は禁物なのである。 「思いやり・やさしさ」とは何か[#「「思いやり・やさしさ」とは何か」はゴシック体]  そういう功利的な意味合いは別において、もっと原則に返って思案するなら、縁あって生涯の伴侶《はんりよ》を得た夫としては、妻に女としての喜びをできるだけたっぷりと与える努力こそ、人間としての愛情の努めではないだろうか。男にしろ女にしろ、人間は限りなく幸せを求める生き物なのである。人にはそれぞれ限られた社会的立場があるゆえ、物質的つまり経済的な条件に制約されているから、その次元において妻を理想的に、至上の域にまで処遇することはとうてい叶《かな》わない。世の常として上には上があるのだから、どれほど手厚く十全に扱っても、人間の欲は果てしないからやはり不満は残るだろう。  しかし、外なる境遇がどれほど意に沿わない状況であっても、内なる肉体の喜びを開発するには何の支障もない。その意味では人間に与えられている条件は完全に平等である。  小説『チャタレイ夫人の恋人』の中におけるこの段階で、コニイとメラーズはまだ情人の関係にあるが、しかし、二人はかりそめに思いたって、いっときの情事にふけっているのではなく、明白に夫婦としての自覚を持っているのだから、この一対《カツプル》を夫婦のあるべき模範として、作者が描いているのは明らかであろう。そして二人が同時にお互いを評し合う「やさしさ」とは、もちろん気持ちの向け方ではあるが、ともども相手のなかに性の喜びを高めるための、それに向かっての心遣いを意味すること、あらためて念を押すまでもあるまい。  ふと犬の頭を撫《な》でてやるときのような、淡い一人合点に発する気分の放射ではなく、相手の肉体をより充分に灼熱《しやくねつ》させるための真摯《しんし》な心遣い、それこそ二人の認めあっている「思いやり」であり「やさしさ」なのである。  思えば人間の生命がおかれている条件は、何と素晴らしくありがたい果報に満ちていることか。そもそも、人間が最も辛《つら》く悲しく思う状況、それは、自分がほかの人間に比べて何かをより少なくしか与えられていないと、絶えず思い知って鬱屈《うつくつ》する僻《ひが》みである。浮世の生活においてわれわれは年がら年中、他人と何《なん》や彼《か》やを比較して情けなく思っている。所詮《しよせん》、人生とは不平と不満の果てしなき連続であるのかもしれない。  しかし、ちょっと立ちどまって考えてみよう。人生において外から与えられる恵みについては、たしかにいつまで経っても不足の思いが残るであろう。しかし、しかし、である。しかし、性交による肉体の喜び、これだけは、まさに、これだけは、まったく平等に与えられているではないか。少なくとも、喜びの高みに達しうる可能性だけは、完全に満遍なく享《う》けているではないか。この一点に関する限り、不平を言ったら罰が当たる。人生は、その基本のところで、やはり平等な条件に立脚しているのである。敬虔《けいけん》に、感謝の念を忘れぬようにしようではないか。  そして、いかにすれば「思いやりのあるやさしさ」を発揮できるか、どうすれば「思いやり」の手筈《てはず》を整えて行動に移せるかについて、真剣に工夫をめぐらさなければならないのである。事実の問題として、女が見るからに溌溂《はつらつ》としているときは、性生活が充実している場合であると思われる。それこそ、人間が、天から与えられた恵みを充分に堪能《たんのう》した、人間としての根元的な幸せを満喫した結果なのである。メラーズは、「男性をして真に男性たらしめ、猿のようであってはならないのだ(Makes'em really manly, not so monkeyish)」と言う。決定的な言葉ではないだろうか。 性を軽んずる者は性に復讐《ふくしゆう》される[#「性を軽んずる者は性に復讐《ふくしゆう》される」はゴシック体]  そして、男と女とは、成年に達して、経済的な条件が許す段階に及べば、何もばたばたあわてる必要はないけれど、機会を捕らえて早く結婚するのが至当であろう。  伊藤整は『若い詩人の肖像』(新潮文庫)の一節に、自分が教師として勤める学校の校長から、結婚を勧められた挿話を記《しる》しとどめている。自分はまだ若すぎる、と抵抗する主人公に、校長が、結婚生活を一日でも長く味わうのも、人生の幸福の一つですよ、と訓《さと》すのに対して、文学者になりたいという志《こころざし》を抱《いだ》いているこの青年が、烈しく反撥《はんぱつ》するのは、この場合は当然そういう成行きとなったであろう。しかし、この主人公のような格別の野望を胸に秘めているのでない限り、一般論として、校長の意見を正しいと見るべきではないだろうか。  男の場合はいささか事情を異にするのだが、女の晩婚は気の毒であり不幸である。どうにも否定しようのない事実として、女の体は二十歳《はたち》を越したあたりで成熟の頂点《ピーク》に達し、以後は緩慢ながらもしだいに衰《おとろ》えてゆく。したがって、最も麗《うるわ》しく実《みのり》の豊かな年齢《とし》に性生活を始めるのは女の幸せであり、また当然、最絶頂期の女を与えられた男もまた、類《たぐ》いなき宝物を得た喜びを噛《か》みしめることであろう。  もちろん、何らかのかたちで恒常《こうじよう》的な性生活を送っている女の独身は例外とする。しかし性生活とは無縁に年齢を重ねてゆく独身女性は、天から頂戴した貴重な宝石を、いたずらにあてもなく路傍に投げ捨ててさまよい歩いているに等しい。絶対に二度と返らぬ輝かしい性的成熟期を、空しく過去に追い去りやるという、それほどの決定的な犠牲を払ってまで、この世にいったい何を求めようとするのであろうか。  性生活をともなわない独身の女に、老いは駈け足で捉《とら》えにくる。ある年齢を過ぎると全体にしぼんだ感じがどことなく漂う。ああ、確実に盛りを過ぎたな、と思わず慨嘆せざるをえない。そして、少し大袈裟かもしれないけれど、頽齢《たいれい》という言葉が脳裡をかすめる。性を軽んずる者は性に復讐されるのである。  そもそも、性生活は、人間にとって、肉体の最も自然なあり方ではないか。よかれ悪《あ》しかれ、人間という生き物は、経常的に性交を重ねるように、初めからそのように産みつけられているのだ。われわれは自然による生成の原理を重んじ、この自ずからな生き方を素直に尊重すべきである。根本的に、性交する人間は自然である。性交しない人間は不自然である。性交は健康の基礎である。新陳代謝を促進する。性交によって男も女も肉体が全身的に蘇生《リフレツシユ》する。禁欲が健康に資するところはないのである。  ついでながら、性交を自ら禁じているという建て前を掲《かか》げていた比叡山の僧侶たちが、実は念入りな男色にふけっていた生態を、司馬遼太郎が『義経』(文春文庫)に皮肉っぽく描いている(全集二一巻四八ページ)。また、生涯|不犯《ふぼん》(女を蔑視して物体視し、道具扱いする意識が生んだ言葉だが、今は慣用に従っておく)と謳《うた》われている高僧が、齢《よわい》を重ねるに及び、人情を解しない精神の木乃伊《ミイラ》に化している状態を、井上靖が『澄賢房覚え書』(全集二巻)に照らし出している。 女性を喜ばせる「第三の手」[#「女性を喜ばせる「第三の手」」はゴシック体]  それはさておき、話を先へと進めよう。性の悦楽において人間は平等なりと、つい先ほど記《しる》したばかりなのだが、問題を少し深めて考えると、事情はかなり厄介になる。  私が平等と言ったのは、男は男同士で平等、女は女同士で平等、という意味においてである。そして私はわざと問題をあとへ残しておいたのだが、周知のように、性交においての場合、男が得る喜びと女が得る喜びとでは、測りしれぬ甚大な隔差が存在する。その質の差は男を絶望させるに足《た》りるほど激しい。どんな数理学者でも、この隔差を数字に表わすことはできないであろう。  女の喜びをジェット飛行機とすれば、男の、このけちな喜びは、子どもがおもちゃにするプラモデルのようなものではあるまいか。男は生まれつきひじょうな損を運命づけられているのである。男のほとんどは、できることなら来世は女に生まれ変わりたいと願っているかもしれない。  しかし、そこはまたよくしたもので、女はもちろん自分一人の力で悦楽に達することができないから、男による誠実な奉仕に俟《ま》たなければならない。だから、せっかくやっとの思いで女に生まれ変わったとしても、相手の男が「思いやりのあるやさしさ」を持っていなければ万事休す、宝の持ちぐされに終わるだけである。うかつに生まれ変わるわけにもいかないとでも言おうか。  いずれにせよ、性の悦楽においては男と女の間に甚《はなは》だしい優劣が見られるのに鑑《かんが》み、男の喜びを、性感、それに対して女の喜びを、性反応、と区別して呼ぶのがあるいは妥当であるかもしれない。男の体には、性感帯、として格別に採《と》りあげるに足る部分がほとんどないのに対し、女の体には、刺戟《しげき》すれば幾重にも反応する性感帯が用意されているからである。男は所詮、男根《ペニス》を膣《ちつ》に挿入し、摩擦を繰り返して射精するだけなのに対し、女は性感帯のすべてをあげて反応し響鳴する。それゆえ、もし男が女に「思いやりのあるやさしさ」をもって臨《のぞ》むのなら、女が悦楽の極《きわ》みを全身で体感できるように仕向けねばならぬ。  そのためには、すでにG・レグマンの『オーラルセックス入門』(斯波《しば》五郎訳、昭和四十六年・池田書店、五十三年改版)などに説かれているように、「第三の手」、すなわち、舌を活用する必要がある。要は、舌である。男が女を心から愛し、女を喜ばせようと真剣に考えるなら、とりたてて誰に教えられなくても、舌を用いて努める必要があると、自ずから悟《さと》るはずなのだ。しかるに、性について事こまかにはっきり語ることを禁忌《タブー》としてきた長い習慣のため、これほど切実にして重要な問題が、なかなか書物のかたちでは記述されなかった。まことに愚かしい、人間の幸福を阻害した遺習である。  有名なヴァン・デ・ヴェルデでさえ、「性器刺激の接吻」または「性器接吻」というような言葉でほのめかすにとどまっている。オーラルセックスについての最も古い解説書と目されている、デビッド・デビッドソンの著書にしても、翻訳された書名は、あえておぼろめかして『愛の接吻』と逃げている。この本の刊行は一九六五年、つい近年であるにもかかわらず、である。そして一目見るなり分かるように、この著者名はもちろん偽名であって、本当はディル・コピイとレオナード・ロッグが書いたのであった。  一方、G・レグマンは、オラゲニタリズムという新語をつくりだし、それがキンゼイなどにより、オーラル・ゲニタルと変えられて一般化した。すなわち、男の性器を舌によって刺激するフェラチオと、女の性器を舌によって刺激するカリニングス《クンニリングスとも》と、その両者を総称した言い方である。 女性には、天が与えた宝石がある[#「女性には、天が与えた宝石がある」はゴシック体]  一般に、あらゆる性書は、男の性感の微弱さと、女の性反応の激甚さと、この間の落差をはっきり認めまいという態度に貫かれている。すなわち、男が女の舌によって得る喜びと、女が男の舌によって得る喜びとを、等価値であるかのように説き進めている。  しかし、それは真っ赤な嘘である。女が男根《ペニス》を舌で舐《な》めたり、口に含んだり、しごいて射精させたりするフェラチオなんて、まったく気休めの飯事《ままごと》みたいなお遊びである。オーラルセックスの極意はもちろんカリニングスである。  ただし、狭義のカリニングスにとどまらず、女の性感帯は全身いたるところに伏在しているから、それらをしだいに開発してゆく必要がある。いちいち教科書《テキスト》に就《つ》かなくても、愛し合う二人が手さぐりで、性の急所を徐々に見い出してゆく探索それ自体も、それまた大いなる性の悦楽ではなかろうか。  それにしても、舌による愛撫の中心は、もちろん、陰核《クリトリス》である。陰核《クリトリス》こそ、天が女性に与えた最もきらびやかな宝石である。  女が虚栄心にかられて人目を惹《ひ》く高価な宝石を指いっぱいに飾ろうとも、そんなくだらぬものは何の役にも立たない。女は女である限り、体の中心部に、何ものにも代《か》えがたい値《あたい》千金の宝石を秘めているのだ。この宝石を、男が舌で、柔軟《ソフト》に、やさしく、抱きしめるような心持ちで、ゆっくりと愛撫してゆく。男の愛情が注《そそ》ぎ込まれるときである。  そしてしだいに昂奮が高まったら、まず人指し指を静かに膣の中へ挿入して、感度の高いところを求めながら細心にまさぐる。そのあと中指を加えるのが常道である。古川柳が、  入口で医者と親子が待っている  と喝破《かつぱ》している。入口は膣口、人指し指と中指が膣の中へ入り、親指と薬指と子指が外側にある、という意味である。  昔から男の悩みとするところは、男根《ペニス》という、この男の大切な一物《いちもつ》が、何とも鈍感にできていることである。男根《ペニス》を膣に挿入して、単に進んだり退《しりぞ》いたりの単純な摩擦にとどまらず、上下左右へと自由に動かすことができたなら、痒《かゆ》いところへ手が届くように、膣壁を撫《な》で擦《こす》ることができるはずなのだけれど、それがとうてい叶《かな》わぬのは、思えば何ともじれったい。奉仕《サービス》精神の旺盛な男なら誰でも、つねにそのことを嘆きとしているであろう。そこで致し方なく、一物《いちもつ》の代用として、指に頼らざるをえないのである。しかし、この指もまたかなり鈍感である。  膣壁をいちおう撫でることはできるものの、どの部分が今どのように反応しているかを的確に感知することができない。膣壁の収縮の工合がよく分からないのである。女が性交の相手として勘のいい男を好むのは、こういう場合に男の勘が生きるからであろう。 近世日本人の苦心|惨憺《さんたん》──元結《もつとい》[#「近世日本人の苦心|惨憺《さんたん》──元結《もつとい》」はゴシック体]  男の体で最も鋭敏なのは舌である。だから、舌を膣《ちつ》に挿入して、膣壁を内側から自在に舐《な》めまわすことができたら、それはもう最高であろう。そこで、わが国の近世期には、元結《もつとい》が使われたようである。元結《もとゆい》、と正しく発音すると形式ばるので、普通には元結《もつとい》とくだけて呼ぶ。すなわち髻《もとどり》を結ぶために用いる細い緒《お》である。麻糸の場合もあり、のちには紙縒《こより》をもって製するに至った。この元結によって舌の付け根を縛り、舌の状態をできるだけ棒に近くして、膣に挿入できないかという工夫である。近世人の苦心|惨憺《さんたん》には深く敬意を表するものの、効果のほどは保証いたしかねる。  このような噂話にも似た話題まで持ち出したのは、昔から、わが国の世の男が、ひたすら、女を喜ばすために、どれほど苦労を重ねてきたか、その一端を伝えたいためである。男は女のために全力を尽《つ》くして工夫し努めなければならないのだ。男はつらいよ、とは国民栄誉賞に輝く�寅さん�の映画の題名であるが、昔も今も変わりなく、男はつらいよ、なのである。  大阪のあるざっくばらんな父親《おつさん》が、可愛い自分の娘と結婚した男の肩を叩いてこう言った。 「おい、頼むぜぇ、一生、上の口も下の口も適切《あんじよう》に食《く》わしたってや」  性の喜びを極めることのできない女の一生は惨めである。その代《か》わり、体の奥底から衝《つ》きあげる歓びを知った女は、否応なく男に敬服し、男を大切に扱い、浮世のしょうもない欲に引きまわされることはないであろう。マヒナスターズが発掘した「お座敷小唄」の最後はこう結ばれる。  唄の文句じゃないけれど  お金も着物もいらないわ  貴方ひとりが欲しいのよ  こう言われるようになったら、男も一人前《いつちよまえ》なのである。 女性には、どんな心遣いが必要か[#「女性には、どんな心遣いが必要か」はゴシック体]  そのためには男も女も協力して、寝室の小道具を怠《おこた》りなく整備しなくてはならない。昔はどの座敷も寒かったので、適度に暖めるのが一苦労であったが、今では暖房がゆきとどいているから、素裸になっても快適なように温度を調節する。照明はお互いの全身が見渡せるような明るさを保ち、暖色のほのかな雰囲気を漂わせる。人生にとっていちばん大切な場所をおろそかにしてはならないであろう。  そして性交には「程度の変化」が必要である。いくら床忠実《とこまめ》な男であっても、いつもいつも毎晩欠かさず全力投球をせよと要請されたら、うんざりして嫌気がさすに違いない。男は時として気楽にあっさり一人芝居で射精したいと思うものである。踊《おどり》を見せるにも、豪華な衣裳を着ての本格ものとは別に、鬘《かつら》をつけない素踊《すおどり》もある。  また、善美《ぜんび》このうえない濃厚な豪華版《フルコース》の料理ばかり食うわけにもいかず、さらっとしたお茶漬もまたよろしいではないか。女はいつもいつも豪華版《フルコース》を望むのではなく、ときに男がお茶漬ですましたいと思う場合もあることを察するべきである。男が今夜は一汗も二汗もかくだけの気力に余裕がなく、一人ですませたい気分であるなと感じるときがなければならない。  そういうとき、男はいくつになっても恥ずかしがり屋であるから、何だか言い出しにくい気分でいる。そのあたりの気配を敏感に察して、むしろ女のほうからさりげなく誘《いざな》い、今夜はお茶漬、素踊《すおどり》でいいのよ、という気持ちを言外に伝えなければならない。それが女における「思いやりのあるやさしさ」というものである。  そして男が快《こころよ》く果てたときは、よかったかしら、と問い掛けるような気配で、いとおしげに拭いてやり、冷《さ》めぬように包んで準備しておいたお絞りで清めてやれば、男の気持ちがどれだけ安らぐことであろうか。自分が豪華版《フルコース》を欲するときの要請《おねだり》と、男の素踊《すおどり》を許す場合の誘《いざな》いと、この両者を時に応じて適切に使いわけるのが、女の知恵というものである。豪華版《フルコース》のあと、ぐったりしているときは、男に拭いてもらうとしても、いつもいつもそうしてもらって平気な女は鈍感である。性生活はあくまでも協同作業なのである。 セックスレス夫婦のための�性典�[#「セックスレス夫婦のための�性典�」はゴシック体]  昨今、報じられているように、セックスレス夫婦が増えているのであると仮定すれば、その原因は次のごとくであろうかと推定される。  第一に、生活の文化的水準が向上した結果、性に対する執着が貧しいときに較べて減退してきた趨勢《すうせい》である。これは文明社会のどこにでも見られる普遍的な現象であった。それ自体としては憂うる必要のない成行きである。要するに、量より質である。むしろ回数を減らして間をおきながら、時に奥行きの深さを楽しむほうがよいかもしれない。  原因の第二としては、男も女もしだいに自尊心が高くなって、両者とも相手に性交を求めることが、身を屈しての恥辱と感じられる傾向があるのではないか、と想像される。そして原因の第三としては、ことに女が性の知識に長《た》けるようになってきたゆえ、毎回の性交において、男に期待し要求するところが大きく膨らんできたので、それを男が鬱陶《うつとう》しく思って、身を退《しりぞ》けがちになるのではないか、と推定される。  もし私の思いめぐらすところが幾分なりとも当たっているとすれば、原因の第二と第三は、それを除去する方向へ持ってゆくべきではないかと思われる。そのための方策たるべく、解決の方向を示唆《しさ》すべく、私は以上のような差出がましい考察をあえて試みた次第である。何とぞご賢察のほどお願いしたい。  戦後に性の問題を説いて一世を風靡《ふうび》したのは高橋鉄と謝国権《しやこつけん》である。しかし、両者がともに重きをおいたのは、主として体位の研究であった。実は、あんなもの、何の役にも立たないのである。本当に役立つのは、体位とはほとんど関係のない、性技、なのである。その意味では一連の性技小説が、よく読めば参考になると思う。その方面の代表作としては、笹沢左保の『悪魔の部屋』(昭和五十六年、光文社カッパ・ノベルス・絶版)と広山|義慶《よしのり》の『女喰い』連作(昭和六十三年以降、既刊一一冊、祥伝社ノン・ノベル)を挙げておきたい。  なおロレンスのエッセイ集録としては、『D・H・ロレンス紀行・評論選集』全五巻(昭和六十二年・南雲堂)が刊行されている。 [#改ページ] (2)世間体《せけんてい》と自尊心の関係──『この世の果て』   ──�帰ってきた人間嫌い�サマセット・モーム、ただ一つのテーゼ �姦通《かんつう》�を題材にした珠玉の短編[#「�姦通《かんつう》�を題材にした珠玉の短編」はゴシック体]  サマセット・モームといえば、『人間の絆《きずな》』がその代表作品として、どの世界文学全集にも必ず入っているが、モームの短編に比べると、あんなもののどこがおもしろいのかと思う。  モームには�南海物�と呼ばれる、植民地を材料に取り、テーマを絞《しぼ》り込んだたくさんの短編がある。その中で私はたった一つ、『この世の果て』(新潮文庫版絶版)という短編を取りたい。この作品には現代にそのまま通じる人間観察の基本が、見事に凝縮されて語られているからだ。 『この世の果て』の主人公は、ジョージ・ムーンという、南海にあるイギリスの植民地の駐在事務官である。彼は、今年ついに定年に達して、今まで絶大な権勢をふるったこの駐在地を辞して、イギリス本国に帰らなければならない。国へ帰れば退職金が出るし、年金もあるから、どこかの田舎にでもささやかな家を見つけて住むことになるだろう、と考えている。しかし、そのことを、彼はまったく楽しみにしてはいない。それどころか、いわば自分の人生は終わったのだ、という達観した気持ちを持っている。  いよいよ今日を限りに退官という日に、在留イギリス人たちが、彼のために盛大な歓送会を催してくれることになった。もっとも、彼は在任中、ひじょうに厳しい、やり手の駐在事務官であったから、同じイギリス人でありながら、ささいなことで処罰を食《くら》ったりして、やりきれない思いをしていた連中は、内心ではほっとしながら歓送会の準備をしている。歓送会が始まるまでの時間を仕事部屋で過ごしていたジョージ・ムーンのところへ、トム・サファリーという、ゴム園を営《いとな》んでいる男がやって来た。そしてこの短編は、ほとんど二人の会話だけでストーリーが展開されていく。  このトム・サファリーは、ついこの間、清濁併《せいだくあわ》せ飲むタイプの事務官であったなら見逃してくれるようなこと、つまり使用人を鞭《むち》打ったというささいなことでジョージ・ムーンに処罰され、気まずい思いを抱《いだ》いている。しかし、そのトム・サファリーが思いがけず訪ねてきて、次のような相談を持ちかけた。  トム・サファリーの妻であるヴァイオレットが、自分の家の隣りに住んでいた同じイギリス人であるノビイ・クラークという男と、実は姦通《かんつう》していたことを告白したというのだ。しかも、このクラークがイギリスへ帰ることになり、ヴァイオレットも後を追う手筈になっていたという。しかし、そのクラークが帰りの船の中で死に、それが新聞に報道された。そこで、それまで二人の関係をまったく知らなかったトム・サファリーが家へ帰ってクラークの死を妻に告げると、ヴァイオレットはただならぬ様子で取り乱し、ついに姦通の事実があったことを白状したという。  つまり、トム・サファリーは、この事件にどう対応したらいいかという相談を持ちかけてきたわけである。当然離婚だ、女房をたたき出す以外に道はない、ということであれば、相談する必要もない。しかし、そう簡単に決断ができない、という微妙な心理状態で、彼は有能だが気むずかしいジョージ・ムーンに相談を持ちかけてきたのである。  それに対して、ジョージ・ムーンは「あなたは私にそんな相談を持ちかけてはいるが、実際はもうちゃんと彼女を許してるんでしょう。本心から離婚する気はないんでしょう」という言い方をする。いつもは苦虫を噛《か》みつぶしたような事務官の思いがけない態度に、サファリーはびっくりする。しかも、ジョージ・ムーンは自分のかつての体験を話しはじめた。 世間体《せけんてい》を優先すれば、自分の幸福は逃げていく[#「世間体《せけんてい》を優先すれば、自分の幸福は逃げていく」はゴシック体]  ジョージ・ムーンはかつて結婚していたのだが、その妻がやはり若い男と密通したという前歴の持ち主だった。彼は断固として妻を離婚し、一人息子は自らが引き取った。しかし、南洋では育てられないため、仕送りをしてイギリス本国で育てていたのである。  そこで、ジョージ・ムーンはこう言う(訳文は新潮社版・増野正衛《ますのまさえ》による)。 「私がその女と結婚したころには、女はとても美人だった。それがわざわいだった。もっとも、かりに彼女が美人でなかったら、私は結婚してはいなかったのだが。まるで蜂蜜壺の周《まわ》りにたかる蜂のように、男たちが彼女の後をつけていた。私たちはしょっちゅう口論ばかりしていたものだった。そして、とうとう私は彼女の不義を見破った。もちろん、私は彼女と離婚したのです」  その言葉に、トム・サファリーが「もちろん、ですか?」と念を押す。そうすると、ジョージ・ムーンが、 「そうです。しかしそうしたのが、まったく愚かだったということが分かりましたよ」彼は前方へ乗り出した。「ねえ、サファリーさん。今にして思うのだが、もし私に分別が少しでもあったなら、あの時私は目を閉じているべきだったということが分かります。彼女は落ち着いて、私の素晴らしい妻になっていたことでしょう」  そうすると、サファリーが「人には考えなければならない体面というものがありますからな」と答えた。その次のジョージ・ムーンの答えが、この一編の眼目と言ってよい。  ジョージ・ムーンは答えて言った。 「体面などは馬鹿馬鹿しいものです。人は自分の幸福を考えるべきです。自分の妻が他の男と一緒に床に入ったからといって、本当にその人の名誉にかかわるものでしょうか?……私は自分の妻が好きでした。私は他の女が好きになったことなどないとは申しません。なったことはあります。しかし、彼女は他の誰もが私に与えることのできなかった何かを持っていました。私は自分がこの世で他の何ものにもまして必要だったものを、自分がそれを独占して楽しめないからと言って捨て去ってしまったことを、なんと愚かだったことだろうと思うんですよ」  そこで、トム・サファリーはびっくりして、 「私は、まさかそんなことをあなたの口から聞こうとは、考えてもおりませんでしたよ」  ジョージ・ムーンはサファリーの不安そうな太った顔に、はっきりと現われた当惑を見てとって、かすかに笑った。  そして、ジョージ・ムーンいわく、 「おそらく私は赤裸々な真実をあなたに聞かせた最初の男でしょう」  すると、トム・サファリーが、ジョージ・ムーンに、 「あなたは、もし万事もう一度やり直しができるとすれば、また別の態度をおとりになるとおっしゃるのですか?」  ジョージ・ムーンはそれに答えて、 「もし私がもう一度二十七歳に戻ったとすれば、おそらくやはりあの当時とおなじくらい愚かになるでしょうね。しかし、もし自分の妻が不実を働いたとしても、もし私に今の分別があれば、私のすることをあなたにお話ししましょう。つまり、私はあなたが昨夜したと同じことをするでしょう。私は彼女をこっぴどく殴りますが、そこで止めておきましょう」  トム・サファリーは、 「あなたは私に、ヴァイオレットを許せとおっしゃるのですか」  事務官はゆっくり頭を振り、そしてほほ笑んだ。 「いや、あなたはすでに彼女を許していらっしゃるのだ。私はただ、あなたが腹立ちまぎれに、自分の身を痛めるようなことはしなさるな、と忠告しているだけです」 人は、なぜ人に相談するのか[#「人は、なぜ人に相談するのか」はゴシック体]  もちろん、これは小説である。たいへん極端な実例、つまり自分の妻が姦通《かんつう》したという、ちょっとこれ以上、個人生活のささやかな歴史の中で、男の心情を波立たせることはないであろうと思われるような極端な条件が設定してある。ここで一言お断わりしておくと、私はこの小説の肩を持って、皆さん、奥さんが浮気しても、絶対に許してやれ、などと言うつもりはない。また、もし自分がかりにそういう局面になった場合にどうするか。これは神のみぞ知りたもうであって、私がジョージ・ムーンほどの訳知りになれる自信もない。  ただ、この極端な例をもって、モームが言いたい真実というのは、世間体《せけんてい》、体面というようなつまらないことにこだわるなという、この一点である。  現実には、このトム・サファリーは離婚などしたくない。しかし、事ここに至れば、これは体面上、男の立場上、絶対に離婚しなければならぬという強迫観念にかられている。しかし、それを断固として自分の独断において、即座に実行するだけの決断ができない。そこで、他人が何と言ってくれるか、つまり世間様というものの反応をいちばん簡単に知るために、この駐在事務官の顔色を見に来たわけである。だから、相談に来たという行為それ自体の中に、ジョージ・ムーンは相手の内心にある二つの動機を見破ったのである。  一つは、本当は自分の生活にとって必要な女性を、今回の事件は不幸であったが、もしできることなら事を大きくしないで収めたい、という潜在意識がそこにある。しかし、それをそのとおり勇気をもって実行するには、あまりにこの人物は世間体というものにこだわりすぎている。そしてその世間体の代表者であるところの、しかも今日を最後に去って行くはずの駐在事務官の反応を見ることによって、�世間�の打診に来ているのである。だから、この男トム・サファリーの悩みの根本は、つまりは世間体にある、とジョージ・ムーンは見破ったわけである。 「体面などは馬鹿馬鹿しいものです。人は自分の幸福を考えるべきです」というこの一節は、高遠な哲学でもなく、思想でもないが、人間が自分の一生というものを、何かの局面に際して考える場合に、やはり想い起こすに足《た》る名句と言えるのではないだろうか。 決断の底に隠された本当の動機[#「決断の底に隠された本当の動機」はゴシック体]  離婚に限らず、たいていの人間が、たとえばサラリーマンが敢然と辞表を出すような場合、見えざる世間というものに対して、自分がフットライトを浴び、舞台の上の俳優であるかのように思い上がって、一つの決断をすることがある。つまり、センチメンタリズムに自分で酔ってしまうような局面が、人生には一度や二度は訪れるものである。  そこまで至らずとも、いわば決心がつかずに、人生をずるずると過ごした人もいるだろう。あるいは、それを自分で明晰《めいせき》に分析し、決断した人もあるだろう。あるいは血気にはやって一つの決断を下してしまって、あとになって引っ込みがつかず、くよくよした人もいるだろう。  このように、人間社会のあちこちで演じられている、ささやかな劇を一つの山のある話にして、もっとも典型的《テイピカル》な例として持ち出すためには、姦通事件がモームにとって、最も有効な小説的設計図だったに違いない。  つまり、モームはこう問いかけているのだ。あなた方が人間的な決断であると思い込み、肩を怒らして行なうことが、実は世間からすれば何の効果もないことであり、それは、ただただ世間体というものに対する義理立てにすぎないのではないか。そこのところを一遍でも考えてみたことがあるか、と。  さらに、人生の岐路に立たされ、自分がそのものを捨てるか、あるいは捨てないでおくかという決断を迫られたとき、その判断の基準の中へ、世間体、あるいは世間受けといったものを片鱗《へんりん》だに持ち込んではいけませんぞ、持ち込んだが最後、自分の本当の、内容のある幸福はけっして得られませんぞ、と、モームは警告しているのである。  だから、自分に本当に必要なものは、世間体というものを考えないで自分の人生を守ることではないか、あるいは、時によれば自分の手で握り獲得することではないか、と言うのである。  言葉に出して言うとひじょうに簡単そうに聞こえるが、現実には、これはなかなかむつかしい。しかし、モームの言うごとく、完全に世間体というものを意識から抹殺することはできないにしても、可能な限り、世間体という強迫観念を自分の頭の中で、冷静に看貫《かんかん》(台秤《だいばかり》)に乗せて、値踏みをしてみることはできるのではないだろうか。そうすれば、何か重大な局面に遭遇した時、自分の判断、決断というものが、やはり微妙に変わってくるはずである。 感謝とか報恩を他人に期待してはならない[#「感謝とか報恩を他人に期待してはならない」はゴシック体]  続いてモームは、もう一つ重大な人生洞察をジョージ・ムーンに語らせる。  ジョージ・ムーンにまったく予想もしなかったような説教を食《くら》って、トム・サファリーは狼狽《ろうばい》するが、そこで引き下がることはとても心情的にできない。間男《コキユー》にされたトム・サファリーは、今度は別の事情があることをジョージ・ムーンに告げる。 「あなたは事情をご存じではありません」と、トム・サファリーがジョージ・ムーンに訴える。 「(あの死んだ、つまり自分の妻と密通した)ノビイとわたしは、ほとんど兄弟のようなものでした。わたしが彼にここの仕事を見つけてやりました。彼は何もかもわたしのお蔭《かげ》を蒙《こうむ》っています。そしてヴァイオレットは、わたしがいなければ、生涯を家政婦のまま過ごさなければならなかったかもしれません。そういう境遇にある彼女をわたしは拾って、女房にしたんです。……わたしは彼女が可哀そうでならなかったのです。だから、わたしは彼女と結婚した。まあ、言ってしまえばですね、最初彼女をわたしに注目させたのは憐憫《れんびん》だったのです。人がどこまでも他の人々《ひとびと》に対して立派に振舞ってきたのに、道に外れたことをしたことはないのに、そのヴァイオレットとそのノビイの二人が、道に外れたことをして顔に泥を塗るとは、少し厚かましいとお思いになりませんか? まったくひどい恩知らずな仕打ちです」  ここで論点が移動する。つまり、不義密通ということから、自分の自尊心が傷つけられたということに変わってくる。それに対して、ジョージ・ムーンが痛撃を加える。 「ああ、それはね、人は感謝報恩を期待すべきではないのです。誰もがそんな権利は持たないものです。結局、人はそれが(自分自身に)喜びを与えるからよいことをするのです。それはある限りの最も純粋な形の幸福というものです。それに対する感謝を期待することは、多くを望みすぎることになります。もしそれを得たとすれば、それは、人がすでに割当てを得たうえに出るボーナスのようなものだ。それは素晴らしい。しかし、それを当然受け取るべき分け前だと考えてはいけないのです」という説教をするのである。  このジョージ・ムーンの言葉は、私たちが人生の初めから最後まで、けっして忘れてはならない教訓だと思う。どんな人でも、自分の人生の中で必ずこの問題に直面することがあるだろう。つまり、自分が何らかの親切、恩恵を他人に一度も与えたことのない人もいることだろう。だが、他人に恩恵を与えたという誇らしい記憶を少しも持たない人は、まずいないことだろう。そして、人に恩を授けたという記憶は、自然に年月を経て、必ず大きくなっていく。しかも不思議なことに、これが自然に縮まっていくということは、まずありえない。  それに対して、人から感謝、報恩という報酬を得たという記憶を持ちつづけている人も、これまた、この世の中にほとんどいない。そして、みんなその間の、いわば自分で処理し切れないような自尊心の痛みというもの、あるいは怨《うら》み、つらみということに悩む。しかし、それを解決する方法は何もない。ただ一つ、モームがここで言っている、「人は感謝報恩を期待すべきではない」という精神を持つこと以外に、どう考えても絶対にないのである。  人間は、初めからけっして感謝などしない。このことについては、次のラ・ロシュフコーの項でも述べるが、もしAがBに恩を授けた。それによってBがAに感謝し、これからもAに感謝しつづけるという場合があるとするなら、それはBが、Aから今まで以上の継続的な賜物《たまもの》が期待できるという場合にのみ限られる。そうでない限り、どういう有利な条件、恩恵を与えられても、与えられたほうは、それは自分がそれに値するだけの能力、才能、貢献、業績、手柄があったからだ、と思う。本心では、絶対にそう思っているものなのだ。  しかし、最後に、モームはこうも言っている。それでも感謝されたら、「人がすでに割当てを得たうえに出るボーナスのようなものだ」から、喜んで受け取れ、と。  この言葉は、やはり人間性について考える場合の、一つの重大な基本原則なのである。 「人間性とは、たいてい馬鹿げており、悲しいものだ」[#「「人間性とは、たいてい馬鹿げており、悲しいものだ」」はゴシック体]  では、なぜモームに、これほどの鋭い人間観察ができたのか。『この世の果て』の最後で、モームは次の言葉をジョージ・ムーンに語らせている。 「わたしはそんなことは深く考えたことはありません。……しかし、真実と顔を突き合わせて考え、それがたとえ不快であっても腹を立てず、人間性というものをあるがままに受け取り、それが馬鹿らしい時には笑い、悲しいときには誇張なしに悲しむことが皮肉屋だというのなら、多分、私は皮肉屋でしょう。大抵、人間性というものは、馬鹿げていて、悲しいものですよ。しかし、もし人生が君に寛大ということを教えたならば、人生には泣くことよりもむしろ笑うことのほうが多いのが分かるだろうと思いますよ」  これが、つまりモームの基本姿勢である。  真実と顔を突き合わせること、さらに、人間性の自然、人間性の真実、あるいは人間性の現実というものに直面した場合、たとえそれが不愉快であっても腹を立ててはいけない。人間性というものをあるがままに受け取って、それをどういうふうに見るかということに思いをひそめるべきだ、と言うのである。そして、たったこれだけのことを言うために、モームは『この世の果て』や幾多の短編で、手を変え品を変えて説きつづけているのである。  要するに、モームのテーゼはたった一つであって、それは、人間を生きているまま、その自然の姿のままに見ることが、いかに困難であるかというものである。つまり、人間性の自然を見ていると自負する人が、実はけっして見ておらず、何かのフィルターをかけて、たとえば理想主義的な目差《まなざ》しを向けて見ているに違いない、と言うのである。 帰ってきた人間嫌い・モームの本質[#「帰ってきた人間嫌い・モームの本質」はゴシック体]  では、なぜモームは、このようなテーゼを内に秘めるようになったのか。モームについて私なりの解釈をすれば、彼は大変な人間嫌いだったと思う。ひじょうに鋭い感受性の持ち主であったため、若い頃にひじょうな人間嫌悪に陥《おちい》り、気むずかしい人間になったに違いない。  その後、彼は自分の心をもう一度立て直して、人間というものを熟視してみようと思い至ったのだろう。やはり腰だめというか、意気込みというか、その立場で作品を書いているから、そこに人は打たれるのだろう。つまり、モームは�帰ってきた人間嫌い�なのである。人間嫌いのままであれば、アフォリズム(警句・箴言《しんげん》)にはなっても、小説にはならない。しかし、彼は帰ってきたのだった。  そこで彼は、身近に起きる不愉快な事柄をできるだけ抑制し、自分の心に生じたさまざまな人間への反撥を、整理箱を無理に作って、そこへ整理整頓し、自分自身にも人間を見ることの喜びを説得しようとして、自問自答しているのである。しかし、今までのあらゆるモーム評というのは、全部そこを見落としてきたようだ。  モームの作品を嫌う人たちのほとんどは、モームを説教屋、嫌味な人間通と思っている。自分を人間洞察の高みに置き、下を見下ろし、しかも斜《しや》に構えて人間について教え諭《さと》している、と考える。しかし、この批評は、文学というものをあまりにも心得ていない方の言葉ではないだろうか。モームは長い間かかって、人間観察法の眼目を自分自身に向かって説得し、その結論を読者にお裾分《すそわ》けしているのである。 [#改ページ] (3)素っ裸にされた人間性の真実──『箴言集《しんげんしゆう》』   ──ラ・ロシュフコーが徹底して洞察した人間の行動原理 最も鋭く、最もエッセンスに富んだ傑作[#「最も鋭く、最もエッセンスに富んだ傑作」はゴシック体]  この世には、とんでもなく分厚い本や長い論文、長い小説を書く人がいる。彼らは、きっとよっぽどの自惚《うぬぼ》れ屋に違いない。きっと、その著書だけを無人島へ持って行って読んでくれる熱狂的な愛読者が、天下に氾濫《はんらん》しているとでも思っているのだろう。中には、日本でいちばん長い長編小説を書き残したいと努力している人間もいる。しかし、われわれ多忙な現代人にとって、これはまことに迷惑至極で、そういう延々と長いものを書く作家は、極端に言えば�人類の敵�だと言ってよい。  そういう意味で、世界のあらゆる古典の中から、とにかく最少の時間で読め、内容はエッセンスばかり、しかも、これほど読んでプラスになる本はないという、極め付きの一冊として推薦したいのが、ラ・ロシュフコーの『箴言集《しんげんしゆう》』(岩波文庫新訳)である。  フランス語でマキシムと言い、日本での翻訳には『人生の知恵〈省察と箴言〉』、『箴言と省察』、『箴言と考察』とか、『マキシム』とか、いろいろな表題で刊行されている。というのも、『マキシム』それだけを文庫本にしたのでは、一冊としてはあまりに薄すぎて、とても体《たい》をなさない。そこで、翻訳本はこの『マキシム』以外に、ラ・ロシュフコーが書き遺したものを全部入れて一冊にまとめている。実はそれだけでもまだ薄すぎるので、後ろにいろいろ解説をつけたりして、かろうじて恰好をつけている。逆に言えばラ・ロシュフコーほど、人類のために、つまり読む側の身になって本を書いてくれた人はいないと言える。この本には、まずそういうオマージュ(賛辞)を捧《ささ》げるべきだと思う。 光り輝く人間洞察の珠玉[#「光り輝く人間洞察の珠玉」はゴシック体]  さて、この『箴言集』は、普通、モラリストと言われるフランスにだけある独特な一連のジャンルに属したものである。このモラリストの系譜は、文学でもなく、哲学でもなく、思想でもなく、人間性、それも、とにかく裸にした人間性というものを唯一のテーマとして、それに対して最も短い、気の利《き》いた言い方を並べるということを基本方針にしたものである。  しかし、たった一行で寸鉄人を刺し、しかも、あるイデーが言い尽《つ》くされていなければならない。しかし、それほどの辣腕家《らつわんか》というのは現実にそういるものではない。したがって、『随想録《エツセー》』のモンテーニュ、『ラ・カラクテール』のラ・ブリュイエールがモラリストの両巨頭ということになる。しかも、そういう人間性についての感想集、観察集というのが、どうしたことか、フランスにだけ特有の伝統になっており、イギリスにもドイツにもどこにもない。パスカルの『パンセ』も、一部の熱烈なファンには怒られるかもしれないが、広い意味ではモラリストの範疇《はんちゆう》に入ると私は考えている。  しかし、モラリストというのは、肺腑《はいふ》を衝いたホネの部分だけを言おうとしているから、ちょっときつすぎる。そのため、一人|密《ひそ》かにニヤリとしたり、ドキッとしたりしながら読むものとしてはふさわしいが、それをそのまま実生活に適用することは、やはり危険である。毒が効《き》きすぎる、という欠点があるわけである。  ところで、このモラリストの中に、箴言《しんげん》とか、さらにそれを煮詰めた警句といったものだけを書こうと志《こころざ》す連中がおり、そういった箴言主義者、警句主義者の代表選手としてラ・ロシュフコーがいる。つまり、モンテーニュの『随想録』の場合は警句ではなく、個々独立ではあるが、かなりまとまりのあるエッセーを並べるという体裁を採《と》っており、ラ・ブリュイエールの『ラ・カラクテール』になると、箴言をもってモラリズムふうに処理した作品で、いわば箴言とエッセーの境界線の真ん中に位置する両棲動物のような書物ということになる。  しかし、ラ・ロシュフコーの『箴言集』は、まさにその典型で、たとえばここで引用する吉川弘《よしかわひろし》訳の角川文庫版(現在は絶版)だと、本論は約五六〇ぐらいしかない。しかも、その五六〇の言葉の大半は、たった一行で語られており、二行、三行にわたるというものは少ない。  さらに、そのどれもが動かすことのできない人間性の洞察として、これ以上のものがないものばかりである。ラ・ロシュフコーが人間性を全部言い尽くしてしまい、それ以後、彼が「しまった、私は言い残していました。あなたのほうが極端に先へ進んでいますね」と脱帽するような才能は、ついに出てこなかったのである。とにかく世界文学史上に、この一冊だけがピカッと北極星のように輝いているというわけである。 痛烈な自己反省に根ざした著作[#「痛烈な自己反省に根ざした著作」はゴシック体]  ここで、ラ・ロシュフコーという男の人物像を紹介しておきたい。この人物は一六一三年にフランスで生まれた貴族、それも、ルイ十三世の時代からルイ十四世のころにかけての、当時の宮廷貴族で、家柄はたいへんよく、大地主だった。当時の最高の教養を身につけた人物で、女性関係のほうもなかなかのものだった。  ただ、この人のキャリアを見ると、あまり成功した人物とは言えない。これははっきりとは分からないが、元来は血の気の多い人物だったのではないかと思う。初めから人生を達観して、先を見通し、君子|危《あやう》きに近寄らずというように泰然としていた人ではない。それというのも、二回も宮廷の中で反乱軍に身を投じ、両方とも失敗しているからである。  第一回目は、ルイ十三世時代の有名な独裁宰相・リシュリューの反対派に身を投じたが失敗。八日間バスティーユの監獄に投獄され、それから二年間故郷に蟄居《ちつきよ》を命じられている。その間にリシュリューが死に、やっと蟄居を許される。そしてルイ十四世の時代になると、またフロンドの乱(一六四八〜五三年)に加わる。そして、これがマザランの策略によって敗れ、しかも彼は重傷を負う。このように二回にわたる陰謀と反抗に、どちらも失敗する。そして、また故郷《くに》に帰るが、やがて謹慎が解けて、一六五五年パリに帰ってきて、あとはサロンの人間として余生を送ったのである。  彼もサマセット・モームと同様に、初めから人生を達観しているような人間なら、こういう辛辣《しんらつ》な人間性に対する洞察力を身につけるようなバネは、けっして生まれてこなかったことだろう。ある時期までは、人間性の奥底の真実に気づいていなかったはずである。だが、あれやこれやの経験から、最後に「ああ、何とわれ愚かしや」という気持ちが起こって初めて、これを書きはじめたのだろうと考えられる。  つまり、痛烈な自己反省、あるいは自分のある時期の思いあがりとか、さらには楽観主義とか、そういったもの一つひとつを、自分の胸をいちいち傷つけながら鉄のペンでギイーッギイーッと痛めつけるような気持ちで書き記《しる》していったに違いない。だから、その一句一句には、この著者の血が実際に流れており、人間を上から見下ろし書いた嫌味はけっして感じられないのである。 自己愛という怪物の正体[#「自己愛という怪物の正体」はゴシック体]  このラ・ロシュフコーの『マキシム』には、表題の横に一つのエピグラム(警句)があり、このエピグラムが全巻を貫くテーマとなっている。  いわく、�われわれの美徳は、まず大抵仮装せる悪徳にすぎぬ�。  それでは、人間を駆《か》り立て、動かしているものは何であるのか。  それはすべて自己愛、つまり自分自身に執着し、自分を限りなく愛するところの精神である、と彼は喝破《かつぱ》する。  第二節�自己愛というものは、あらゆるおべっかつかいのうち、最もしたたかなものである�  第三節�人間の自己愛という領土で、たとえ今後いかなる発見があったにしても、まだまだそこには知られざる土地が残っている�  こういう自己愛というものを中心に、まず彼は考えていくわけで、その自己愛の延長線上にいろいろな観察がある。  第三十一節�われわれにまったく欠点がなかったら、他人の欠点を見つけて、こうも嬉しくはならないだろう�  われわれは他人の欠点を見つけると、とにかく嬉しくなる。しかし、それだけを捉《とら》えて何かぞくぞくとして、胸が楽しくなると言ったのでは、マキシムにはならない。その上に�われわれにまったく欠点がなかったら�という一文がついているところがミソであり、これがマキシムというものの、ひじょうに知的で遊戯的なところなのである。  第二百三十二節�われわれが嘆き悲しむ時、そこにどんな口実をつけてみたところで、悲しみの原因となっているものは、まず大抵利害と虚栄だけである�  そう言われれば、たしかに何とも反論のしようがない。  第二百九十八節�大抵の人たちの感謝とは、今後もっと大きな恩恵を授かりたい下心に他《ほか》ならない�  これも否定することはできないだろう。自己愛というものは、その時々でいろいろなかたちを採《と》るわけで、その一つは、自尊心である。その自尊心というのは、たとえば、  第十三節�われわれの自尊心は、意見を否定された時よりも、趣味を否定された時のほうがひどく痛む�  これも最初はピンと来ないかもしれないが、何かの折にもう一度振り返ると、ドキリとくる。趣味というか、何か自分の心の持ち方というか、とにかく人間には性格の方向感覚というものがあって、それに対して斬りつけられたと、自分が被害妄想的に感じた時に、いちばん怒るものである。なんと愚かなと言われるより、趣味の悪いネクタイだねと言われるほうが、人は怒るものなのである。  第百四十四節�人は賞《ほ》めたりするのは好きではない。欲得ずくでもなければ、けっして誰をも賞めはせぬ。賞讃というのは、巧妙で、隠微《いんび》で、微妙なくすぐりである。それは与える側をも、受ける側をも、それぞれ別々に満足させる�  実にうまい言い方ではないか。普通なら、受ける側をも、与える側をもという順番にくるはずなのに、�与える側をも�と先へもってきて、�受ける側をも、それぞれ別々に満足させる�と言う。ちょっとした言葉の置き換えではあるが、恐れ入った配列の妙である。  さらにその後に�一方は自分の才能に当然な報酬として受け取るし、他方は自分の公正さ、識見の確かさを見せるために与えるものである�と続く。 自尊心とは、まことに傍迷惑《はためいわく》な存在である[#「自尊心とは、まことに傍迷惑《はためいわく》な存在である」はゴシック体]  とにかく、この世の、賞めるとか何とか、要するに批評というものは、だいたいそういう心理構造をめぐって回転しているものなのである。  第二百三十四節�理路整然たる意見に、あれほど頑固に反対する人があるのは、もの分かりが悪いというより、とかく自尊心のせいなのだ。つまり賛成派についても今さら先頭には立てないし、そうかといって、人の後につくのもしゃくなのだ�  日本中の会議というのは、全部これでやっている。  第三百二十九節�われわれも時たまお世辞はいやだと思うこともあるが、嫌っているのはお世辞の言い方だけなのだ�  まさに傑作。われわれはもっと上手にお世辞を言ってほしいわけであって、誰も言ってほしくないとは考えてはいない。  第三百四十七節�われわれは自分の意見に与《くみ》する人ではないと、良識ある人とは考えない�  こうなると注釈の必要はないだろう。  第三百五十六節�われわれが心から人を賞めるのは、相手がこちらを認めている時に限る�  心から、というところが微妙なニュアンスを伝えている。こういったところが自尊心シリーズである。 妬《ねた》みは慢性疾患、憎しみは外傷という洞察[#「妬《ねた》みは慢性疾患、憎しみは外傷という洞察」はゴシック体]  今度は、それの変型としての「恩」、恩を受けたとか恩返しとかについてまとめてみたい。  第十四節�人間は人から受けた恩恵や侮辱《ぶじよく》を忘れてしまうだけではない。恩を受けた相手を憎むことさえあるし、侮辱を受けた相手を憎まなくなったりもする。恩に報い、仇を返そうと常々心がけるのは、どうにも耐えがたい束縛に思えるのだ�  恩を受けた相手を憎むというのは、ある年齢に達した場合に必ず分かる。自分がそうしていることは気がつかないにしても、自分に対して、誰かがそういった感情を持ちはじめたらしいということは、自ずから分かってくる。しかし、受けた侮辱を忘れてしまうということを対《つい》に持ってきたところが、恩についての論理展開の一つの発見であろう。  そして、その自己愛、自尊心などが最後に流れ込んでいくものは何か、それは妬《ねた》みである。そして、ラ・ロシュフコーは、嫉妬と羨望を峻別《しゆんべつ》する。これには唸《うな》らざるをえない。  第二十八節�嫉妬には、正当で当然な面もある。というのは、われわれが所有している幸福、もしくは所有しているように思い込んでいる幸福を守ろうというだけのことだから。ところが、羨望というのは、他人の幸福が我慢できない怒りなのだ�  考え不足の私など、それを一本にして、「嫉妬というのは、プラスになる場合も、マイナスになる場合もある」というふうに言ったりするが、彼はそれを言葉の世界で峻別《しゆんべつ》しようとする。  第二十七節�人々は最も罪深い情念でも、よく自慢の種にする。ところが、羨望ばかりは蔭にこもった、恥ずべき情念なので、けっして白状しようとはせぬ�  羨望は自ずから漏《も》れることはしょっちゅうだが、白状というかたち、あるいは、見せびらかす、ひけらかすというふうには、やはり人間にはできないものらしい。  第三百二十八節�妬《ねた》みは、憎しみよりも和《やわ》らぎにくい�  妬みは慢性疾患のようなもので、憎しみは外傷のようなものだということだろう。  第四百三十三節�生まれながらの逸材というものの最も紛《まぎ》れもなき証拠は、生まれながらに人を羨《うらや》まぬことだ�  だから、そういう逸材はありえないということになる。  第五百二十一節�隣人の没落は、その友人にも敵にもおもしろいのだ�  これは日本でも「隣りの貧乏、鴨《かも》の味」という諺が昔からある。『箴言集』の特徴は、多少の表現上のトリックというものはあるにしても、とにかくそれ以外の言い方がないというまでに、言葉を選《よ》りすぐるところにある。おそらく彼は後半生、ただこれだけを書くために、本当に骨身を削ったに違いない。 「運」とは偶然か、それとも必然か[#「「運」とは偶然か、それとも必然か」はゴシック体]  この本を最初読むと、そんなにまで言わなくてもいいのではないかと思ってしまう。しかし、もうそんなに言わないでくれ、と言いたくなるような気持ちになっても、ここまで自信を持って明晰《めいせき》に言われると、やっぱりそのとおりだと、最終的には説得され、認めざるをえなくなる。それというのも、これらの言葉自体が自分を現実認識へ一歩引き寄せ、同時に自分の気持ちの中に安堵《あんど》のようなものが、自ずから浮かび上がってくるからだろう。それがこの作品がずうっと読み継がれてきた根本の効能ではないかと思われる。  それから、自惚《うぬぼ》れ。  第三十七節�過ちを犯した人たちをたしなめる時、われわれには善意よりうぬぼれのほうが強く働く。長々とお説教はするものの、相手の間違いを正そうというより、自分が別ものと言って聞かせるのだ�  人間は、なぜ他人に忠告したがるのか。自分を優位に置く楽しみにふけりたいからである。  第四十二節�理性の言うことに必ず従うという力は、われわれに備わっていない�  これは渡部昇一が一昔前、『腐敗の時代』とか『正義の時代』(ともにPHP文庫)でつねに警鐘を鳴らしていたのと同じ立場で、理性万能主義に対する痛烈な批判といってよい。  さらに、ラ・ロシュフコーは、必ず、どんな場合にも、運というものを忘れない。  第五十三節�天賦《てんぷ》の才にいかに恵まれていても、それだけで英雄になれるのではない。ついて回る運もある�  ところで、ラ・ロシュフコーがこの一句を書いた時、あるいはこれを添削《てんさく》しつつあった時に、このモデルになる人物がいただろうと思われる。フランスではこのモデル捜しが行なわれ、ほぼモデル決定が済んでいるのだが、それは好事家《こうずか》の詮索にまかせておけばいいことである。われわれにとって大事なことは、これはどの時代にもある真実だ、と認識することである。  運の続きとして、今度は、運を左右するものは何であるか、ということをこの人は考える。  第六十一節�人間の幸不幸は、運にもよるが、その人の気質にもよる�  運というものは、まったくその本人と何の関係もなく、隕石《いんせき》のように落下してくるものではない。もし運が偶然的なものだとしても、その底には、何らかの必然的な要素が多少はある。少なくともそういう見方は、自分は運がないと見る場合にも、何か運が向いてきたと見る場合にも必要で、これはそういう時の一つの心構えをつくってくれるものである。  それでは、今度は運をどうするかというと、  第三百九十二節�運も健康と同じように、管理せねばならぬ。すなわちよい時には楽しみ、悪い時には辛抱し、切羽《せつぱ》詰まらないかぎり、荒療治はしないことだ�  切羽詰まった時には、という余韻が残っているところがおもしろい。だから、そういう切羽詰まった時に、運退治に出かけるのか、あるいは楚《そ》の項羽《こうう》のように運に従うのか。しかし、そうは言っても、この天運というものは管理しきれるものではない。呼んで呼べるものでもない。  だから、  第四百三十五節�天の運と人の気まぐれがこの世を支配する�  となる。人の気まぐれというのは、なかなか言いにくいことで、こういうところを完全に黙殺するところから、歴史的必然論、あるいは歴史的進化論、段階論が出てくるのである。 人間にとって恋とは何か、友人とは何か[#「人間にとって恋とは何か、友人とは何か」はゴシック体]  さらに、この人はいわゆる恋愛思想をいっさい認めない。  第七十六節�まことの恋は亡霊の出現のようなものである。皆その話をする。だが、それを見た者はほとんどいない�  第七十七節�人々は、男女のさまざまの結びつきに、勝手に恋という名を冠してしまう。が、それと恋とは何の関係もない�  これは当然のことだが、この断言を認めてしまうと、近代思想と近代文学の理論的な支柱の一つが大きく欠落してしまうため、みんな困ってしまうのである。  第百三十六節�恋物語を聞かなかったら、人恋うる気はとうてい起こさなかったろう、そんなふうに思える人々があるものだ�  これは表現の屈折上、�あるものだ�ぐらいにすませているが、�恋に恋する�人間が少数派だと思っていないことは、推測にかたくない。それから、恋と関連して友情が出てくる。  第八十三節�友情などと呼ばれているものは結局のところ、ただの結びつきであり、利害の相互処理や親切の交換にすぎぬ。要するに自己愛が何か獲物にありつこうとして、常に待ち構えている取引関係にすぎぬ�  これがいちばん友情論の濃度のきついもので、あとはいろんなパターンに応じて、ちょっとこれを水増しして適用していけば、だいたい全部に適応できるわけだ。  私が最初に『箴言集』を読んだ時、全部が全部、完全に骨身に応《こた》えるには少し若すぎた。しかし、当時の年齢なりに、本当に参ったのは次の一節だった。  第百七十八節�われわれが新しい知り合いのほうに傾いていくのは、旧友に飽いたとか、変化を喜ぶとかいうことより、われわれを知り過ぎている人たちに、それほど敬服されていないのが気に食わないのだ。われわれをよく知らない人たちからもっと敬服されたいのである�  新しい人が向こうから交《まじ》わりを求めてきた時に、人は必ず多少の興奮、心躍る感情を、ある一時、覚えるはずだ。しかし、すぐそれは消えてしまう。しかも、そんなことの繰返しをしているのに、やっぱり新しい友人のほうに傾く。それは年齢にもよるが、友だちが増えていく年代という時には、必ずそういう気持ちが湧く。  これについては、こうも言換えができるわけだ。�われわれはなぜ新しい友だちを歓迎し、喜ぶか。自分に対するお世辞を新しい言い回しで聞ける可能性を喜ぶからである�と。  親しくなれば、もうお世辞は言ってくれないし、たまに義務感のように言ってくれても、その言い回しは型にはまって、定《き》まりきっている。それではどうしてもおもしろくない。そこで本人が気づこうと気づくまいと、新しい友人の出現に喜ぶことになるのである。 洞察力、先見性に潜む危険性[#「洞察力、先見性に潜む危険性」はゴシック体]  この本は全巻ことごとく洞察力の書で、言われてみれば、みな思い当たることばかりである。たしかにここまで痛烈、辛辣《しんらつ》にいちいちピタピタと言い抜いてきた人間は滅多にいないが、第三百七十七節になると、自分のことも含めて、彼は苦笑いを漏《も》らす。 �洞察力の最大の弱点は、目的に到達しないことではない。行きすぎてしまうことである�  これは洞察力を誇る、あるいはそれを自分の取り柄だと考えている人間に、だいたい当てはまる。つまり、これを逆から見れば、はっきりその現場の状況なり、会議などに合わせて、事柄自体が前へ進めばいいのであって、それに対する自分の貢献度というものを、それほど大きく浮かび上がらせようなどと思ってはならぬ、ということだ。そして、そういう気持ちを持って初めて、行きすぎない洞察力を示しうることになる。  ところが、どうだ、おれはこれだけ先を見通したんだと、先見力を見せびらかそうとすると、絶対に無意識の競争意識に駆られるので、たいてい行きすぎてしまう。そして、その行きすぎた話を聞いた人間がハッと感じる無意識の警戒心、それと、その洞察力を振り回している人間の態度のいやらしさ、この二つが化合して他人《ひと》の反感を招くわけである。  そして、それが度重なってくる場合、今度は現実にはまるで効果を示さない存在となる。つまり、洞察力を見せびらかすだけの皮肉屋といったタイプとなってしまう。しかもそれは、自分に相手を充分説得させる能力がないことから起こる一種のエスケープだと言ってよい。  先にも述べたとおり、著者自身、何度も何度も読み返し、その結果、一句一句に自分でもう一度反省する。そして、いちばん初めに、自己愛の領域で、まだまだ発見されていないものがある、といったことの言換えが出てくる。  第三百八十四節�今でもまだ驚いたりするということ以外に、もう驚くこともないのだが�  四〇になり五〇の坂を越した時には、交際範囲の広い・狭いはあっても、まあまあ自分なりに付き合ってきて、ほぼ人間というものの範囲というものが分かったような気になる時がある。そう思った次の瞬間、とてつもない人間の別の側面を見せつけられることが起こる。つまりマキシムという、この方式を通じての人間に対する観察に終点はないんだということを、この人自身が、この時点で考えていたわけである。 読書が、まるで肥料《こやし》とならない人間とは[#「読書が、まるで肥料《こやし》とならない人間とは」はゴシック体]  だから、次の言葉もよっぽど痛い思いをした結果のものだろう。  第四百三十六節�一人の人間を知るよりも、人間一般を知るほうがまだ楽だ�  彼はある一人の人間が、ある時期に、自分に示したあまりにも予想外の行動というものにつくづく閉口したのだろう。人間一般として考えた場合には、そんなにものすごい例外という存在はないだろう。しかし、ある一人の人間というのは、ある時、どういう行動をするか分からない。  だから、次のような決定的な文句が出てくる。  第五百五十節�本を学ぶより、人を学ぶほうが大切だ�  これは古典を読むにしろ、現代の書物を読むにしろ、声を大にして言いたい点である。いろいろな勉強はあっても、最後に行きつくところはここである。  あれだけ本を読んでいるのに、何もそれが肥料《こやし》になっていないじゃないかと、ついつい一言《ひとこと》言いたくなるような人が、よくいるものだ。これはやはり、人生を、あるいは人間を脇に置いた本の読み方をしているということである。  第四百五節�われわれは人生のどの年齢にも、まったくの新人として到達する。だからいくら年を取っても、その年齢においては、とかく経験不足ということになってしまう�  いままでの四〇年、五〇年で人生が分かったと思うから失敗する。人間は、人生のあらゆる局面に、つねに新人として登場する宿命にあるのである。  そして、これからの高齢化社会を迎えるに当たって、全員がわきまえてもらいたいと思うものに、次の警句がある。  第四百二十三節�老《おい》をわきまえている人は少ない� 『箴言集』を他人に向けて発射してはならない[#「『箴言集』を他人に向けて発射してはならない」はゴシック体]  結局、この一冊の中に救いになるような言葉はほとんどない。つまり、この一冊は、救いというものを安直に求めてはだめだ、と一喝しているわけで、その一喝が五六〇回続いているのである。しかし、あえてその中で救いの言葉を探すなら、辛《かろ》うじてこういうものがある。  第四十八節�本当の喜びは味わいの中にある。物事の中にあるのではない。だから、自分の好きなものを持ってこそ、しあわせになれる。他人の好《す》いているものを持ったとて、何にもならぬ�  これは、この本全体の中でひじょうに珍しい一節だろう。  さらに、第百節�精神の淑《しと》やかさとは、さりげなく相手の喜ぶことを言うにある�  このあたりが、多少、いかにすべきかというノウハウが述べてあるところで、少しは救いになるかもしれない。そしてこういった一端を見るにつけても、私は、やはりこの人は人間が本当は何を望んでいるのか、何を喜びとしているのかということを、不満を持ちながらではあっても、一生考えつづけた人物に違いないと思う。  そして、その後半生に、ちょっとでも自分が何か甘い理想主義、もしくは高《たか》を括《くく》ったような態度に陥《おちい》ることを、極度に戒《いまし》めたのではないだろうか。つまり、ずいぶん甘かっただろう前半生の一つひとつの自分の生き方を反省し、削ぎ落としながら書きつけていったに違いないのである。  さまざまなモラリストの書いた核心は、この一冊にすべて盛り込まれている。あとのモラリストは、ラ・ロシュフコーの見つけてみせた核心を、今度は違った文体でもう一度再構築したものにすぎない。モラリストの精神、人間観察というのは、だいたいこの一巻に尽《つ》きていると言ってよい。  最後に一言。それは、この一冊は読むだけで終えたほうがいいということである。絶対に人の前でこれを引用してはいけない。こんな痛烈なことを人の前で引用すれば、聞いたほうは、もうどうしようもなくなる。座が白けて、とたんにいっせいにシュンとしてしまう。だから、これは読むだけの本、絶対に人の前で引用したり、しゃべったりしてはいけない本だと忠告しておきたい。 [#改ページ] (4)性に魅《み》せられた魂──『マイ・シークレット・ライフ』   ──すべての性交渉のパターンが網羅《もうら》された世界の珍書 開高健《かいこうたけし》が賛嘆した�天下の奇書�[#「開高健《かいこうたけし》が賛嘆した�天下の奇書�」はゴシック体]  ある一人の男が、その生涯をひたすらセックスにだけ没頭し、その体験、冒険の内容を詳細に書き記《しる》した本がある。  それが世界の珍書・奇書として知られる『マイ・シークレット・ライフ』だが、これは全一一巻、原文は約四二〇〇ページから成る大著であり、全編セックスそのものが描かれている。それも恋とか愛とかいったものではなく、とにかく、人間の性器官にだけテーマを限定して、その体験を赤裸々に書きつづったものである。 �性の経験�を題材にした書物は、カサノバをはじめとしてたくさんあるが、カサノバにしても、この『マイ・シークレット・ライフ』に比べれば、文学的、心情的であって、そのテーマは精神を持った男女の関係ということになる。つまり、その限りにおいて人間交渉録ではあっても、性体験記録ということはできない。  しかも、この『マイ・シークレット・ライフ』は、文学的修飾語をいっさい使わず、男と女が性器をもってやりうるすべての交渉、セックス行為が延々と、誰にでも分かる表現でズバリと書かれている。その意味で、世界中の書物を見渡しても、この書に及ぶもの、並ぶものは一冊もないと言える。  著者は、後に述べるように、イギリス人だが、まだはっきりとは特定されていない。また、わが国でも『わが秘密の生涯』(田村隆一訳・学芸書林、のち富士見ロマン文庫、ともに品切れ中)をはじめとして何種類かの翻訳が出版されているが、残念ながら、この本が天下に風靡《ふうび》したという事実をまだ聞いたことがない。  これはいかにも不思議なことで、私はここで声を大にして、あえて強調しておきたい。それは、本書で採《と》りあげたほかの書物はお読みにならなくても結構だが、この本だけは、どうしてもお読みになってもらいたいということである。  ただし、この著者の性に没頭する情熱は、あまりに人間ばなれしており、女性はさておき、宿命的に能動的な立場に置かれている男性にとっては、「いくらがんばっても、ここまでは無理だ」と、世をはかなみ、劣等感の発作にさいなまれかねないマイナス点があることも銘記されたい。  しかし、この世に生まれた以上、人間は性というものの中に閉じ込められて一生を送るわけで、われわれの人間的存在のいちばん大きな基礎を成しているこの問題について、ここまで探求した人間がいたということは、まさに恐るべき事実で、多少の嫉妬心が刺激されたとしても、ともかく読みつづける価値はある。  これについて、いちばん適切な批評をしたのは開高健《かいこうたけし》で、彼は次のように述べている。 「ファーブルの『昆虫記』を貫く不抜の精神を読者諸賢はよくご存じであるが、あの長大な、とめどない記録を満たす冷徹な観察力、精緻《せいち》な描写、とてつもない忍耐力、または探求心、それがことごとくセックスに傾注されたと考えていただきたい。ファーブルがヘミングウェイの文体でセックスを書いたら、こうなるだろうかと思われるのである」  ファーブルの忍耐力、観察力ということについては、みんな同感するが、ヘミングウェイの文体というのは少し賞めすぎではないか、と陰口をきく人もいる。たしかにヘミングウェイとは格が違う。しかし、即物的、報告的描写力、とにかく変てこな文学的修飾に流れない文体という点を開高健は強調したかったのであろう。 はっきり、さっぱり、あくまでも即物的に[#「はっきり、さっぱり、あくまでも即物的に」はゴシック体]  この書物の原書が印刷されたのは、推定一八八八年、あるいは一九〇〇年。伝えられるところによれば、アムステルダムのあまり上等でない印刷屋で、ひそかに刷られたものらしい。  建て前としては限定六部、実際に刷られた部数については、二五部説、四〇部説、六〇部説などあるが、珍書・奇書であることに変わりはない。現在、この原書の所在が明確になっているのは、大英博物館、アメリカのキンゼイ研究所、さらにヨーロッパのある蔵書家の三ヵ所だけであるとされている。  後は、とにかく、さあ読んでくださいと言うより方法がないが、少し紹介すれば、主人公がいろいろ教わった女にカミーユという手だれの娼婦がいる。そして、その女については、たとえばこういう書き方をしている(訳文は、田村隆一訳『わが秘密の生涯』による)。 「カミーユの場合、いっさいが私にとって新しかった。彼女は私の思いを知って、先回りしてくれるのであった。彼女をベッドのほうへ押しやると、すぐ仰向けに寝て、優しく膝《ひざ》を開き、無言のうちにその狭間《はざま》を、いとも私の好き心をそそるように開け広げてくれた。彼女を広げようとして骨を折れば、広げられるだけ広げてくれ、その後は私の思うままにさせてくれるので、私は広げたり、閉めたり、つまんだり、さすったり、それから奥深く探ったりした。ちょっとの合図ですぐに二本の指先を走らせて、側壁を押し広げ、周到なる探査を可能にしてくれた。  彼女を向き返らせれば、ベッドにうつ伏せになって、宙返りでもするように、腰を高く上げてくれた。足を一本振り上げさせれば、それを私がまた引き下げるまで、じっと立てたままにしていてくれた。私がどうしてくれとも言わぬうちに、私の動きから、その欲するところを察してくれた。  ただ、ずっと後になって、私の欲情が気紛れなものになり、奇妙な肢体や風変わりなやり方を欲するに至って、求めているのがどんなことか、彼女に説明しなければならないようになったが、初めのうちはこちらがそれほど大胆にはなれなかったのである。彼女は一度、笑いながら言った。 『私、根っからの商売女ですわね。好きなんですよ。殿方が私と一緒に楽しんで下《くだ》さるのがうれしいのですわ』  彼女の一挙一動は、私にそんな気のない時ですら、恋心をそそるのであった。彼女が座に着いていると、その肢体のありようが私の想像を掻《か》き立て、欲情をそそって、私をして一躍攻撃に猪突させ、私の好むままの格好ややり方で歓楽に没入させるものとなった。彼女との場合場合における、あらゆる型がすべて健全、かつ自然であったので、私は多様な変化をたっぷり享受《きようじゆ》することができたのである」  この訳文でもお分かりのように、翻訳はかなりセーブしてある。翻訳された当時には、これ以上赤裸々に訳すと刊行されないという規制があったのだろうが、原文はもっとはっきり、さっぱりとしている。 「われわれがよく使った手法にこんなのがある。彼女はベッドの端で私のほうへ腰を向ける。それから静かに身をひねり、片足を私の頭の上に振り上げる。それからベッドに仰向けとなる。その間、二人は離れないのである。これらすべてを少しずつ順序どおり静かに行《おこな》うのであって、急いでやったりすると、私は彼女から外されてしまうのである。  私はいつもこれに賞金をつけたが、彼女はだんだんうまくやれるようになり、巧みに身をひねりおおせて、賞金を手に入れた。 『さあ、外れないようにね。いま、足を上げますわよ』  むずかしいポイントでは彼女はいつも声を上げたが、それは彼女の腰を横転させて、足を上げようとする時であった。私が両手で彼女の腰を抱え込み、下腹を押しつけて、しっかりと私自身を送り込むと、彼女は片足を少しずつ振り上げ、私の押し込む調子に合わせて後ろへ押し出し、徐々に仰向けの姿勢に移り、両足を私の腰の両側に広げながら、本来の体位となるのであった。  その時分になると、私のほうはすっかりめでたくなってきて、あと一突きか二突きすれば、それで昇天するのであった」 ポルノ小説の原理・原論[#「ポルノ小説の原理・原論」はゴシック体]  万事がこの調子である。さらに、第五巻の第十章「解説 性器と性交」という章には、翻訳ではファッキングとかペニスとかカントといったふうに、行為や体の呼称だけは英語のままになっているが、三〇ページ以上にわたって次のような解説がなされている。 「どうしても男の指から逃れられない位置についているので、クリトリスというのは神の思召《おぼしめし》であろうか。もし女が太股をしっかり締めつけていれば、男が前から指を差し込もうとしても、カントホールには届かない。そこで後ろからいこうとしても、尻の二つの丘がぴったりくっついている限り、暴力を使わなければ、指を入れるのは不可能なのであって、仮に女が立っている場合でも、せいぜい前からねらうのと同じ程度の困難さになるだけのことで、やはり無理な話なのだ」  これなど、実際に一つひとつ自分で試してみないと言えないセリフである。 「ところが、クリトリスなら、女を痛い目に遭《あ》わさずに、またどんなふうにして男の攻撃を防ごうとしても、中指を使って触ることができるのである。閉じられた太股の間に中指を突っ込むと、中指はちゃんとカントの上の部分、クリトリスのあるところに届き、女を興奮させて交合を持とうとする男の意思に従わざるを得《え》ないような気分にすることができるのである」  要するにポルノ作家は、ここの一節を無限に回転させて、たくさんの場面をつくっているわけだが、ここに、その原理・原論がある。  それから、第七巻の第五章には、一〇歳に達しない女の子を連れた娼婦との場面が出てくる。この娼婦が、その女の子の母親かどうかは書かれていないが、ともかくその両方とやる。  まず、娼婦と行為に入る。それも一回では探究とは申せぬわけで、さんざん堪能してから、今度は女の子のほうを向いて「あれもやらさないか」、「それなら、金貨をもう何枚積め」といったやりとりがあり、そこで、その少女にとりかかる。当然、少女はいやがる。すると、今度はその娼婦が手助けをして、「ぐいと押し開けて」といったことになる。これなんかは、前半のハイライトと言えよう。 歴史の現実に対する貴重なる証言[#「歴史の現実に対する貴重なる証言」はゴシック体]  この本が書かれたビクトリア朝時代は、大英帝国の歴史、あるいはイギリス文化史、文学史が一つの黄金時代を築きあげた時期であった。つまりディケンズの時代で、またエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で採りあげた時代である。  このように、英国が文化的爛熟を迎えようとする時期に書かれたわけだが、この本には、さらにディケンズやエンゲルスがぜんぜん書かなかった領域が描かれている。つまり、ロンドンを中心とした当時のヨーロッパの庶民のみじめな生活状態が、ありのままに語られているのである。著者にはそんな歴史的事実を書き残しておく意図はまったくなかったのだが、セックス場面の合間合間に出てくる必要最小限の描写によって、当時の庶民の生活状態というものが、実際にどんなものであったかということが、実によく分かる。  一方、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』はどうか。この本は、まずとんでもない虚構、嘘を前提としたものだということを忘れてはならない。つまり、エンゲルスは機械文明、工場文明によって、プロレタリアートとか労働者階級は、まことに悲惨な状況に追い込まれたと主張するわけだが、現実の歴史は、けっしてそんなものではなかった。  エンゲルスは、近代文明が発展する以前に何が行なわれてきたか、という事実を、きれいさっぱり、意識的に無視したのである。つまり、それまで間引かれたり、「オギャア」と言うか言わないうちに彼岸《あつち》へ送り込まれた人口が、近代機械文明の幕開けによって、とにかく最低の生活ができるようになり、そういった人たちが都市へ溢れ出てきたという事実。換言すれば、多くの人間がようやく|生きることのできる時代《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》になったという「人間の歴史のエポック」である肝心カナメの事実を、意識的、かつ完全に伏せて書いたのである。  その手法をそっくり真似《まね》したものに、わが国の明治の庶民史がある。つまり戦後、明治の庶民というのはいかに迫害された存在であったかという伝説が定着した観があるが、あれはすべて嘘である。『野麦峠』にしても『女工哀史』にしても、女中や女工となるということが予想される時代になりえたから、女の子も間引かれることなく育てられるようになったという重大な事実を、最初から無視して書かれたのである。  つまり、現在の社会状況で過去を振り返るから悲惨だということになるわけで、かりに女工に身売りされたにしろ、人間を生かしておくことができる社会条件が整ったということこそ、エポック・メーキングな出来事であり、長い目で見た歴史の実態なのだ。また、二六〇年という世界史上でいちばん長続きした平和な江戸時代に、日本全国の人口は三〇〇〇万人のままでまったく増えなかったという根本的な理由もそこにある。その人口以上の人間は、闇から闇へと始末されていったのである。  歴史を振り返り、ある特定の時代を観察するとき、われわれはつい見落としがちになるのだが、その社会で生きた人間にとって、彼らが生きていた時代以降の世界は、つまり現在に至るまでの人類の歴史はまったく存在しなかったのだ、ということを忘れてはならない。  つまり当時としては、それがその時代に生きる人間に与えられた動かすことのできない社会であり、それを、現在の視点で「女工はああだった、こうだった」と、当時の社会を批判してみても、まるで意味がないのである。それどころか、歴史のあるべき姿、歴史の段階という事実を見間違える、まことに危険な態度と言わねばならない。  ところが、この著者には、当時の時代状況や庶民の表情を後世に伝えようなどという、そんな娑婆《しやば》っ気《け》、山っ気《け》はまったくない。ただ、ひたすら女とやった、やったという記述の中の、ほんの点景として当時の社会が書かれているにすぎない。  だがそこには、当時の庶民が本当にみじめで金貨なんて一度も見たことがなく、食うや食わずの生活をしながらも、その一人ひとりの表情は、いかにも逞《たくま》しく、楽天的であったという事実が、実に生き生きと表現されているのである。 �ヒューマニズム的発作�に駆《か》られてはならない[#「�ヒューマニズム的発作�に駆《か》られてはならない」はゴシック体]  人間の歴史が経てきたある特定の時代の、それも水準線以下の庶民の表情を、文学的粉飾をいっさい抜きにして、ただ受け取ったとおり、見たとおり、そしてヒューマニズムの観点でもなく、統計学者の観点でもない、いわば無関心の観察者として書き残してくれたものが本書であり、皮肉なことに結果として、いちばん意味のある貴重な歴史的文献となっている。  一方、ヒューマニズム的な発作に駆《か》られて、あるいは救世軍的な熱意に駆られて書かれたものはまったくの困りもので、その時代というもの、庶民の本当の表情といったものは、それを書いた人間の理想主義の蔭に隠れて、なかなか正直には読み取れない。だから、私たちは、この点をつねに注意しなければならないのである。  私は、あらゆる歴史学者、社会科学者、さらに「人間の歴史」について、ちょっとでもものを言おうという人は、今日只今から、この一一巻本の中へ埋没していただきたいものだと思う。そしてそのうえで、人間が今日のような豊かな生活ができるようになったのは、ほんの最近のことであり、それまでの庶民の生活というものは、ここに書かれているような悲惨なものであって、しかも、そこに生きる一人ひとりの人間はいたって楽天的で、逞《たくま》しく生きていたという事実を、まずわきまえてもらいたいものだと思う。  たとえば、小さな子どもの娼婦や、ハイティーンの娼婦が出てくる。さらに、娼婦をやって母親を食わせているということに、昂然《こうぜん》とした生きがいを感じている女の子も出てくる。たしかに、道徳的には問題はあるだろう。しかし、そういった今日的なメジャーを度外視して言えば、彼女たちはいかにも溌溂《はつらつ》としており、時には、惚れ惚れするような向日性豊かな生活感覚を滲《にじ》み出しているのである。 「金はなくとも色事はできる」のお手本[#「「金はなくとも色事はできる」のお手本」はゴシック体]  そういった社会学・歴史学的な考察を抜きにしても、考えようによってはセックスほど単純な行為はないわけで、それをマンネリに陥《おちい》ることなく、かくも複雑に書き分けていることに驚嘆せずにはおれない。人間というものは、没頭の仕方によっては、ここまでの奥行きを持ちえるものか、ということが肚の底から納得できる本である。そして最後には、善も悪も暗黒も全部ひっくるめて、この世の中、人間社会というものに対して賛嘆したくなるような、実に陽気な気持ちにさせてくれる。不思議なことに、武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》の南瓜《かぼちや》の絵ではないが、「生きていることはよきかな」というような気持ちを湧き立たせてくれるのである。  ところで、人間は年を取ると、まことに乏しい自分の生活経験だけで、世の中とか人間とかがだいたい分かったような気になるものだ。しかし、それは、すでに精神が衰えはじめた証拠であって、そういう賢者ぶった、知者ぶった心境に達しかけた時には、書斎に一人こもって、一度この本を読み直してみてはどうだろう。なにも肉体的回春剤になるとまでは言わないが、精神的、人間的回春剤には、充分なるはずである。  最後に、この著者についてであるが、先に少し触れたとおり、もちろん名前は分からない。しかし、多くの学者が著者探しをした結果、現在では、だいたいヘンリー・シュペンサー・アシュビーという人物だということになっている。彼は、生まれはあまりよくないが、三〇歳ぐらいで遺産が転がり込み、以後、その遺産を元手に商売を始め、成金に伸《の》しあがった人物である。そして資金を転がし、最後にはヨーロッパを股にかけて動き回るが、足跡の及んだ範囲は、フランス、ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、オランダで、もちろん商用もあるのだろうが、ほとんど女性のために旅行していたようだ。  彼はかなり金に糸目をつけない色事もやっているが、基本的には金はあまり使わない主義で、乳母であろうが、近所の女性であろうが、誰彼かまわず、いかなる機会をも逃《のが》さない。  とくに若い頃、つまり第一巻、第二巻などでは、女性にほとんど金を使っていない。もっぱら押しの一手だった。それも一度や二度拒否されようが、そんなことは当たり前、絶対に引き下がらない。当たって砕けろなのである。  たとえば、お針子の女の子を待ち伏せするところなど、一回目はこうして、二回目はちょっと触《さわ》って、三回目はこうしてという、作戦計画を立てたりしている。  完全な商売女の場合は別だが、とにかく必死に努力しており、少なくとも「金はなくとも色事はできる。腕一本、男根《マラ》一本、元気いっぱいでやれば、どんな女も落ちる」という教訓は、この本の随所に充ち満ちている。  結局、われわれはかなき男どもとしては、「ほんまにあのとおりなんかなあ。かなりオーバーに言うとるのとちゃうやろか」と、最後に捨てゼリフを吐きたくなるぐらい凄まじいものだが、その読後感には嫌味な誇張感はまったく残らず、人生に関して、人間に関して、まことに得るところの多い一大奇書だと言える。 [#改ページ] (5)日本とは何か──『日本文化史研究』   ──一大の碩学《せきがく》・内藤湖南《ないとうこなん》が主張する「歴史観察」の基準 本物の学者、本物の学問とは何か[#「本物の学者、本物の学問とは何か」はゴシック体]  読書のすすめを言いながら、これまで、いわゆる学者の悪口ばかりを述べてきた。実際、学問的著作と言われているもののほとんどが�学問のための学問�でしかなく、そこにあるのは自分たちの創りあげた格式ばかりで、人間が生きるに当たって本当に有益なものは、まず見当たらない。  しかし、もちろんそればかりではない。別格の学者というものも、たしかにこの世には存在する。そして、日本の生んだ人文《じんぶん》系の人物で、これこそ花も実もある学者だと言えるのが、内藤湖南《ないとうこなん》なのである。  明治の学者は皆そうだが、内藤湖南も自分が何を専門にするかということを、初めから考えないで学問をした。これが明治の学者と大正以後の学者との根本的な違いである。つまり自分の大きなテーマがあり、関心を寄せる問題があって、そのためには、古今東西、どのようなものでも調べあげる。結果として、それが研究論文という仕事になろうがなるまいが、それは二の次。そういう姿勢で、事を進めていった学者が、明治にはいっぱいいた。それが大正期になると、アカデミズムというものが出来上がって、学者としての業績、研究論文を書くためだけ勉強・研究をするというみみっちい風潮が生まれ、それが定着してしまうのである。  しかし、この半世紀の間、人文科学に関心を寄せ、自分の学問の幅を広げようと目指した人間なら、必ずといっていいほど読んだ極め付きの名著が、この内藤湖南《ないとうこなん》の『日本文化史研究』(講談社学術文庫)である。  この本には、日本文化史だけではなく、「歴史とは何か」、「文化史とは何か」、さらには「日本とは何か」が語られている。今まで述べてきた人間社会のありよう、さらに人間性についての考察以外に、われわれ日本人が学ぶべき重大なテーマがあるとすれば、それは「日本とは何か」という問題だろう。  そして、この『日本文化史研究』は、それに答える絶好の古典である。しかも、全編すべて講演の記録であり、ひじょうに読みやすく、分かりやすい。本物の学者というものは、これほどによく考え抜いた材料、テーマ、方法を用意しており、さらに、これほど分かりやすく説明することができるものなのかということが、よく分かる。この本は、まさにその証明であり、同時に、今後、本当に学問というものをもって、自分の同時代に貢献しようという誠実さがあるなら、こういった書物を作ることに渾身《こんしん》の努力を傾け、さらに、やさしく集約して書く、という気持ちを忘れてはならないと教えてくれるものである。しかも、一章で述べたとおり、学界の評価という意味では、湖南は不遇な一生を終えたと言えなくもない。しかし、湖南は学界からどう言われようと、そんなことは知ったことじゃない。自分と生を共にしている同時代の人びとが最も受け取りやすいかたちで、自分の考え抜いた成果を語りかける湖南の姿勢は、まことに貴重なものであり、これこそ、学者が最後に到りつくべき一つの理想的な姿なのである。 歴史の洞察には何が必要なのか[#「歴史の洞察には何が必要なのか」はゴシック体]  彼は、京都帝国大学に奉職中、京都の左京区に居を構えていたが、その学識と人柄のために、一年中千客万来だったという。そこで、六〇歳で停年になると、「京都市内にいたのでは、うるさくてかなわん」と言って、奈良に近い京都郊外の瓶原《みかのはら》の山手に家を建て、そこを恭仁《くに》山荘と名づけ隠棲してしまう。  そこで、湖南先生を訪問するには、関西線に乗って行くことになるが、当時、列車は一日に数本しかない。それでも、みんなやっぱり湖南先生のところを訪れる。最寄りの加茂《かも》という駅には、内藤家のために人力車が待っているというぐらいだったそうだ。一方、湖南先生はどうかというと、毎日、午前十時何分かかに京都駅から来る列車が加茂駅に着く。そしてその時間になると、待ちかねたように望遠鏡を持ち出し、恭仁山荘の二階から、「今日は誰が来るのかな」と汽車から降りる来客を捜していたという。結局、門前の賑わうことは京都市内在住の時とちっとも変わらなかったらしい。  内藤湖南は、典型的な雑学者とも言えるが、彼が何をやったのかを一口で言うなら、「文化史」だということになる。  歴史というものは文化の歴史であって、政治を辿《たど》るだけでは歴史にならない。そして、その文化の歴史は、一国だけの現象をいくら捉えてみても、その本質は見抜けるものではない。つまり文化には文化圏というものがあり、たとえばシナ文化圏というものはシナ文化だけを学んでいても、その本質は分からない。そのシナ文化に影響を与えた文化があり、またその影響を受け、それを摂取しながら、しだいに独自な文化を創りあげた日本の文化史、あるいは朝鮮の文化史というものがある。それらを全部、|合わせ鏡《ヽヽヽヽ》にして見なければ本当の姿は浮かび上がってこない、というのが湖南の根本信念であった。  そうした観点から、内藤湖南は、日本の有史以来の歴史を一望に見渡し、それを簡潔明瞭に時代区分していく。この視野の広さはほかに例を見ない。たとえば、日本文化がいつの時代に、どのような契機をもって中国文化圏の羈絆《きはん》から外れ、独自な歩みをしはじめたかという、気の遠くなるようなテーマを、短い講演で明確にやってのける。  平安朝に至るまで、われわれの先祖は一所懸命にお隣りの、はるかに進んでいる高度なシナ文化を輸入した。そして、日本人は、そのある部門を採り入れ、またある部門は融合し、あるいはある部門は拒否してきた。  たとえば、日本人はあれほど中国文化が好きなくせに、中国文化のある種のものは絶対に採り入れなかった。その代表例に宦官《かんがん》(去勢された男の下級役人)がある。シナ崇拝に徹底した日本に宦官の制度を採用しようとした気配すらなかった。採り入れて止めたのではなく、初めから採り入れなかったのである。また、唐の官僚制度(律令《りつりよう》)を輸入したが、制度だけはこしらえても、それが日本の国情に合わないとなると、すぐに有名無実にしてしまった。さらに唐の官僚制度では賄《まかな》いきれないものが出てくると、令外官《りようげのかん》というものをすぐさまこしらえてしまう。 日本の歴史が鎌倉期の前後で二分される理由[#「日本の歴史が鎌倉期の前後で二分される理由」はゴシック体]  このように、日本がしだいに中国文化を咀嚼《そしやく》していき、最後に日本の特色というものを発揮するのが鎌倉期である、と湖南は明言する。  鎌倉期は、新興宗教、あるいは武家制度をはじめとする政治のイデオロギーなどが日本文化の中に、あらゆる社会層の中に、少しずつ浸透し、揃っていく時代である。また、天皇がそれまでの唐の学問を捨てて、宋《そう》の時代の新しい学問を採り入れるといったように、いろいろな条件が徐々に熟しつつあった時期である。そして、その文化的独立を決定的にしたのが元寇《げんこう》であった。当時の日本人は、胆甕《たんかめ》のごとしと言われた相模《さがみ》太郎時宗《たろうときむね》を筆頭に、勝ち負けを度外視して戦った。亀山《かめやま》上皇は、「この国難を救ってくれ、そのためには自分の命もいらない」と神仏に祈り、そういった国を挙げて国家を護《まも》るという意識が、この時代に出来上がった。そして、とにかく元寇を撃退すると、日本歴史始まって以来、初めて、それまでシナを師匠だ、兄貴分だと思っていた日本人の意識が微妙に変わってゆく。  すなわち、南北朝《なんぼくちよう》になると、日本人は、自らの手による歴史観、つまり『史記《しき》』、『漢書《かんじよ》』に代表されるシナの歴史観の輸入ではなく、自分たちの民族の歩んできた事実の中から、日本の歴史を見るための歴史観を創りあげる。つまり、北畠親房《きたばたけちかふさ》の『神皇正統記《じんのうしようとうき》』といったものが出てくるわけで、とにかく、あらゆる部門にわたって、初めて日本文化というものが出来上がってくると湖南は説くのだが、こういう大局的な見通しは、並みの学者には、まずできない。  さらに、ひじょうに有名なものに、「応仁の乱について」という講演があり、そこで湖南は重大な指摘を行なっている。『日本文化史研究』(講談社学術文庫)から引用すると、 「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆《ほとん》どありませぬ、応仁《おうにん》の乱《らん》以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」  これはさまざまな反撥を買ったが、そういう見通しをもって考えるなら、日本の伝統と言われているものの正体が、はっきりと分かってくる。  つまり、応仁の乱以後の日本の歴史をリードした名家はほとんど全部、応仁の乱から一〇〇年続いた戦国時代に出てきたことがはっきりする。つまりそれ以後の歴史は、それこそ「草莽《そうもう》の英雄」と言われるような素性《すじよう》の知れない人物たちが、時代の根幹を作ってきた。「大名の先祖は野に伏し山に伏し」という有名な川柳《せんりゆう》があるが、なにも蜂須賀小六《はちすかころく》を持ち出すまでもなく、近世期に戦国大名と言われたもので、何とか素性のはっきりしているのは細川《ほそかわ》家ぐらいのもので、それ以外は、全部どこで何をやっていたのか分からない。  それを湖南は、「応仁の乱というのは、いわば日本中の身代の総入れ替えであった」と表現する。つまり、これが真の意味での下剋上《げこくじよう》というものであり、しかも湖南は、こうした見解を時代の風聞記とでもいうべき書物を持ち出して展開する。しかもその正当性について、次のような史観を述べる。 「(私は)わずかな材料でお話するのです。その材料も専門の側からみるとまたうさんくさい材料があるかも知れませぬが、しかしそれも構《かま》わぬと思います。事実が確かであってもなくても大体その時代においてそういう風《ふう》な考え、そういう風な気分があったという事が判《わか》ればたくさんでありますから、しいて事実を穿鑿《せんさく》する必要もありませぬ」  この見方は、まかり間違うと、とてつもない方角へと歴史を誘導する危険性がある。しかし、歴史というものを時代の風潮、時代の気分、しかもその流れ、動きを主眼に置いて眺める場合には、これこそ動かすことのできない着眼点である。われわれは、一方において高度に進んだ学問を持っており、それによって事実を調べることはできる。また、たしかに具体的な事実の穿鑿《せんさく》も必要だろう。しかし、それに捉われてしまうと、今度は最も肝心な全体が見えなくなる。  やはり、歴史の観察において、つねに忘れてならないことは、全体の事実を全部寄せ集めた場合に、時代の流れ、動きというものが、そこからどう浮かび上がってくるかということである。この間の事情は、渡部昇一の『歴史の読み方』(ノン・ブック、祥伝社)にも詳述されており、しかも西洋では、事実の穿鑿をする学者をアンテクェリアン(古史実研究家)と呼び、時代の流れ全体を語る人間はヒストリアン(歴史家)と称し、この二者は峻別《しゆんべつ》されているのである。 歴史とは、つねに「|勝者の都合《ビクトリー・ジヤステイス》」で語られる[#「歴史とは、つねに「|勝者の都合《ビクトリー・ジヤステイス》」で語られる」はゴシック体]  さらに湖南を語るには、その底流をなすもう一つの重要な史観を理解しておかねばならない。  それは、歴史というものは必ず時代の権力闘争に勝った者が、勝った者の観点から資料を整理し、都合の悪いものは湮滅《いんめつ》し、あるいは曲解し、あるいは抜粋して、勝者の史観をこしらえあげるものだ、という指摘である。いわゆる「ビクトリー・ジャスティス」ということだが、しかも、これはどこの国、どの時代にあっても、当たり前の話だと彼は言う。  なぜ、こんなことを大正の時代に湖南は言う必要があったのか。それは、明治維新にしても、言うに言えない歴史の暗黒に消え失せた悪辣《あくらつ》な陰謀が存在したのであり、維新の歴史というものも、結局、首尾よく政権を握った薩長を中心とする勝者の立場から、彼らの悪辣な陰謀の事実を全部消し去って書かれたものだ、ということを湖南は指摘したかったからである。  当時、東京帝国大学にはすでに史料編纂所というものがあり、そこでは、一見中立的、かつ文献的だが、微細な資料の編纂が行なわれていた。しかしその資料編纂の根本精神は、勝った者の史観にすぎず、そのことを日本人は充分に考えておかねばならぬ、と言いたかったのである。  それにしても当時のことを考えると、よくもまあ、これだけはっきりものが言えたものだと思う。実はそのちょっと以前に山川浩《やまかわひろし》という会津《あいず》藩生残りの人物が『京都守護職始末』(平凡社東洋文庫)という書物を書いたことが直接的な動機であった。この山川の本は、明治維新でいちばん割を食って、悲劇的ともいうべき損な役割を演じた会津藩の観点から、孝明《こうめい》天皇がいかに会津藩を信用し、どういうご宸翰《しんかん》を下《くだ》されたか、あるいは失脚させられた久邇宮《くにのみや》がいかに無実であったかといったことを、すべて資料をもとに明らかにしたものである。  湖南は、その資料を皆さんにちょっとご紹介申しあげる、というようなソフトな姿勢で、実は歴史文献の読み取り方というものは、ことほど左様にむつかしいものである、そう簡単に歴史の資料の語るところを鵜《う》呑みにしてはならない、ということを指摘したかったのである。  では、それが明治維新だけのことかというと、そうではない。戦後史も同様である。つまり、あらゆる時代の現代史というものは、そういう特定の現代史イメージを創りあげることを利益とし、有意義と考える立場から、必ず慎重にセレクトされ、構成され、描きあげられたものなのである。  内藤湖南は東京帝大の史料編纂所を非難したわけだが、現代の史料編纂所とは、当時、合法とされた単なる民間の職種にすぎない売春業の従業員を「従軍慰安婦」と言いつのり、韓国政府への謝罪と賠償を日本政府に強要する大新聞なのかもしれない(この間の事情は、日下公人《くさかきみんど》著『人間はなぜ戦争をするのか』クレスト社刊に委曲をつくして述べられている。参照されたい)。 この世の中に、中立的な歴史は存在しない[#「この世の中に、中立的な歴史は存在しない」はゴシック体]  人の世がどのように移り変わろうと、歴史の文献、資料がどのようにして生み出され、残されていくかというメカニズムだけは変わらない。あるいは、資料に限らず、人間についても同じことが言えるだろう。  人間は、どれほど公明正大であろうとしても、やはり生きているその個人に即した状況、立場に片寄らざるをえない。つまり、中立的な人間の生き方はありえない。であるならば、中立的なる文献、中立的なる思想というものも、またありえない。歴史資料が特定の利害関係の産物であるように、あらゆる思想、あらゆるイデオロギーもまた、一つの方向性を持った、つまり、ある目的意識を持った一つの色めがねの産物にすぎない。  しかし、そういうものを全部排除してしまおうとすれば、われわれが学ぶべきものは何もなくなる。では、どうすればよいのか。対策はただ一つ、世の中に残されているすべての資料、文献、書物というものは、そのまま鵜呑みにしてもいいほど、聖人の手、あるいは神の手、あるいは自然の摂理によって整頓されて残されたものではないということを、充分に承知しておく以外に道はないのである。  すべては、一定の、ある時代を一生懸命に生きた人間の、その特定の立場、あるいは利害関係を反映しているものである。これこそ人間性の底の底にあるものであり、だから、その土台関係をできるだけ洞察しながら、かつ有益なる部分を読み取っていくことが、書物を読む本道である。内藤湖南はこの『日本文化史研究』全巻を通じて、われわれに、この真実を教えてくれるのである。 [#改ページ] (6)読書を実生活に生《い》かす知恵   ──人間にとって、成長とは何か 「論語読みの論語知らず」にならないために[#「「論語読みの論語知らず」にならないために」はゴシック体]  これまで、私は一一冊の古典、名著を採《と》りあげ、それらの書物を私はどう読んだかについて述べてきた。そして、この最後の項では、そういった書物の知恵を実生活にどう生《い》かすかという、読書にとっての最終的、かつ最も大切な眼目について、少し述べておきたい。  昔から論語読みの論語知らずと言って、あの人間性豊かな論語を読みながら──と言うより読んでよく知っているのをひけらかしながら、ますます嫌味な人間になり、あんな人間と付き合うのはご免だと、鼻をつまんで仲間はずれにされるタイプがいる。  その理由は簡単明瞭、もっぱら他人を批判するためにだけ、論語の文句を利用するからだ。しかし、自分自身をそっくり棚の上に置き、論語の一言一句をまるで手裏剣のように、周りの人間へ投げつけるのは、論語の根本精神に完全に反する行為である。  一にも二にも論語の真髄は、自分自身を反省するための鏡なのだ。外なる世間の群像を見下ろすための展望台ではない。自分のハラワタの細かなヒダといやな臭《にお》いを照らし出し、嗅《か》ぎ分けるための解剖刀なのだ。つまり二章でも詳しく述べたように、『論語』はほんの一例であり、すべての古典は自己反省の、その視点をいろいろ設定するために、あの角度から見ろ、この角度から覗き込めと、人生の踏み込み方の「呼吸」を教えてくれるガイドブックなのである。自分一人を高みに置いて、他人を裁くための法典として、古典を自分勝手に濫用するのは、古典読みの古典知らず、古典読みではなく古典|盗人《ぬすつと》である。  人間にとっての最大の研究テーマは人間であるが、他人の心根の奥底を切り割いてこの目で見るわけにはいかない。他人の内心を理解するのは、外から推定するしかない。つまり、想像であり、比較であり、類推である。星新一のショートショートに出てくるような、初めて地球上にやってきた宇宙人の、その心情を類推することはできない。類推には比較の基準が要《い》る。同じ人類であるからこそ、辛《かろ》うじて類推が可能なのだ。すなわち類推の材料と基準は、自分自身しかないのである。だから、自分自身の心情を徹底的に自己反省したことのない人には、他人の心の広がりと暗がりを、類推するための材料がない。  この章で詳述したとおり、ラ・ロシュフコーの箴言《しんげん》には、有名なエピグラム(警句)がついている。ここでもう一度繰り返せば、この皮肉屋が最初に思いを込めて曰《いわ》く、「われわれの美徳は、まず大抵仮装せる悪徳にすぎぬ」なのである。  これを彼は他人事《ひとごと》として言っているのではない。問題は自分自身の心の奥底、はっきりとした姿かたちはまだ整っていないにしても、そこに何やらうごめいている、ありやなしやの微《かす》かなものをじっと見つめて、愉快ではないけれどもそこから目を逸《そ》らさずに、見届けようとする探求心なのである。  まず最初は自分の内心、それを見届ける勇気がなければ、また、その眼光に磨きをかけなければ、他人の内心など分かるわけがない。ラ・ロシュフコーは自分自身に対して、全身の総力を挙げてある努力をした。それはどういう努力であったのか。自分自身に対して最も意地悪くなる努力であった。世間の誰よりも徹底的に、人間|業《わざ》ではこれ以上不可能というくらいに、血も涙もなく冷酷無情、トコトン無慈悲に意地悪の極みを行ない、自分自身のウラのまたウラを見つめる努力、それが人間観察の極意なのである。  ラ・ロシュフコーの名人芸は、史上空前の苦《にが》い自己省察に没頭したうえで、それを唯一のバネとして、人間性一般へと視野を広げたものである。  もし彼が自分は特別な人格者だと自惚《うぬぼ》れていたなら、自分の心のヒダの奇妙な動きが分からず、したがって当然、他人の内幕にも類推が行き届かず、心にしみいるようなこの名句は、けっして生まれなかったであろう。 嫉妬心を超越した自己反省こそ大切[#「嫉妬心を超越した自己反省こそ大切」はゴシック体]  一例を挙げれば嫉妬心の問題がある。自分は嫉妬心と無縁な清純人間だと、もし頭からそう思い込んでいる人があるとすれば、その人は世間から必ず嫌われる。おそらくその人は自分を聖人の位置に置き、他人を見下《みくだ》して澄ましていることだろう。そういう傲慢《ごうまん》は誰にも相手にされないはずだ。自分の心情の奥底に暗いカゲはないと、そう信じているウヌボレ屋は、人間関係の不適格症の患者である。たぶん、その人は嫉妬心のカタマリで、しかもそうじゃないとふんぞり返っているのだから、自分の醜《みにく》い嫉妬の衝動を無制限に野放しにして、相手かまわず撒《ま》き散らし、周りの空気を汚染する一方の人物に決まっている。  その反対に自分自身を冷酷に見て、どんなにわずかでも自分の中の嫉妬心を見い出し、その饐《す》えたいやらしい臭《にお》いに鼻をつまんで閉口した人間だけが、それゆえに嫉妬心をいかに抑制すべきか、切羽詰まっての苦しい思案を重ねるのである。  そのあれやこれやの工夫をテコとして、自ずから他人の嫉妬心の輪郭が、しだいにありありと見えてくる。そこで初めて嫉妬心一般というような、リクツのうえだけでの抽象的な見方ではなく、個々それぞれの無限に多様な嫉妬心の、山あり川あり沼あり洪水ありの、複雑な起伏が理解されるのである。  もともと嫉妬心は、人間性の自然である。  人間は誰でも必ず嫉妬する。食欲や性欲がいくら烈しくも、それらはほぼ一定量で満たされる。しかし嫉妬心の発作には限度がない。嫉妬心は無限だ。嫉妬心が一〇〇パーセント解消されるなんて事態はありえない。嫉妬は人間性の常態なのだ。だから、嫉妬心一般をやみくもに非難するのは、むしろ人間性に反する。  問題は嫉妬心の程度である。嫉妬心それ自体がイケナイというのは、性欲を全面否定するのと同じように、そういう論理こそ不自然の極みである。今日只今《こんにちただいま》から全人類一人残らず、性行為を完全に排せよという掛け声が、無意味であり不可能であるのと同じく、人間から嫉妬心をなくせという命令は、人間性否定の暴論である。  要は、人間社会の円滑が肝心。度はずれた嫉妬心が不幸を生むのであって、ある程度までの嫉妬心の発動は、笑って見逃すしかないのである。この間の呼吸を会得するには、自分自身を省《かえり》みるだけで充分であろう。  現代に残る著名な古典、少なくとも人間性を描いたり分析したりを眼目とする古典は、すべて人並みはずれて徹底的な、自己反省の努力の、それも一時《いつとき》の思いつきではない、長い長い期間の持続という難行苦行の結実である。それを読み進み読み返すのは、あらためて、われわれ一人ひとりが、それぞれ自己流の自己反省の方法を模索すべく、そのコツを言わず語らずに、伝授するためのほとんど唯一の回路なのである。 永遠のテーマ──今の若者は礼儀を知らん[#「永遠のテーマ──今の若者は礼儀を知らん」はゴシック体]  若者の活字離れとか、中学生・高校生・大学生が本を読まないとかいうことを、読書週間になるとあらゆる新聞が書き立てる。しかし、これは何の根拠もないことであって、私は昭和十七年に旧制中学へ入ったわけだが、当時の私の仲間の中学生たちも、学校の勉強以外にそれほど本を読んでいなかった。これは私が身をもって証言できることで、人間は現在の悪口を言うために、ちょっと記憶の薄れた三〇年から五〇年ぐらい前を美化して、昔はよかったと言うものだ。  エジプトのピラミッドのいちばん底を発掘したところ、書記の書いた粘土の板が出てきて、そこには「今の若者は礼儀を知らん」と書いてあったという有名なエピソードがあるが、要するに、人間はみんなそう言ってきたのである。現在の日本人は、むしろ実によく本を読んでいると思える。だから、もっと読むべきだという理想論ならまだしも、昔の日本人はたくさん本を読んでいたのに、今の若者は読まないという比較検討論は、まったく根拠のない嘘八百である。  また、子どもたちが受験地獄にさいなまれて人生勉強や読書をしなくなったというのも、大新聞、大雑誌の謳《うた》い文句になっているが、以前だって上の学校へ進学する時はみんな辛《つら》かったことに変わりはない。人間は、ひじょうに恵まれた境遇にあり、一所懸命勉強に没頭し、狭き門と言われるところをくぐり抜けると、どうやら昔の辛かった気持ちを忘れてしまうものらしい。  また、人間には過去を美化したがる習性があり、自分だけは苦労しないで狭き門をくぐってきたんだという自惚れの気持ちが、中年以上の人間の心の中では発酵するものらしい。それを現代に投影して、今の受験地獄は気の毒だと言う。どっこい、何も気の毒じゃない。いやなら受験など止めればよかろう。私の子どものころは、そう肚《はら》を括《くく》って自分の道を選んだ人間も多かった。かく言う私自身もそうであった。  時代は違うが、肚を括って暮らすというのは今だってできるはずで、現在、受験地獄に苦しんでいる連中も、やはりそういった生き方を望んでいる。「お母ちゃんが言うからや」と子どもたちは異口同音に話すが、あれは嘘で、彼らがそれほど「お母ちゃん」や「お父ちゃん」の言うとおり動くのなら、今の若者世界はもっと静かであるはずだ。反抗心に充ち満ちているくせに、その一点だけは、突然、親が言うからというのは逃げ口上である。 成長拒否症的言辞に惑わされるな[#「成長拒否症的言辞に惑わされるな」はゴシック体]  さらに、受験のためにひじょうにたくさんの時間が割《さ》かれて、人格の陶冶《とうや》に捧《ささ》げられるべき読書とか、見聞を広げるための余分な時間がない、という一部の大人が口にする台詞《せりふ》も私は嘘だと考えている。もちろん受験勉強は受験のためにあり、当然、人生勉強のためにあるのではないが、しかしそれ自体、何らかの精神の滋養になりうるものだ。こういう手合いは、人生勉強をせよと言われると、今度は、それをやらないための屁理屈をまた考え出す。この受験勉強という言葉をサラリーマンの仕事という言葉に置き換えてみれば、この間の事情は、より明確になるはずだ。  そのやらなければならない仕事が無意味だと言うのは、実は、自分はそこからエスケープしたいと打ち明けているのと同じである。しかも、別個に教養とか読書とかの架空の理想を掲げ、当面の仕事から目を外《そ》らそうとするのは、人間にとっていちばん大切なそれぞれの年齢における成長の段階を無視することである。これでは成長拒否症《モラトリアム》の人間ばかりを生み出すことになりかねない。  たしかに小説好きというのは昔から勉強が嫌いで、私なんかもそうだったが、要するに勉強が無味乾燥でおもしろくないから、いろいろな本を読んだわけである。ただし、これは自発的なエスケープであり、成長拒否症的甘えのエスケープとは区別されるべき生き方だろう。しかし、かりに自発的なエスケープにせよ、それを善なるもの、それが豊かな人間をつくるコースであるかのように言うのは、やはり頽廃《たいはい》的な現象であろう。  その時の人間に与えられている条件なり、仕事なりと切り離された「教養の世界」、「読書の世界」というものがあると信じたい人は信じればよい。それも一つの人間の生き方である。しかし、社会全体が漠然と、地獄の外側には極楽があるといった涅槃《ねはん》像を描き出す考え方は、やはりおかしい。  つまり、煎《せん》じ詰めれば、現在の読書すべしという趣旨の読書論は、以上挙げたいくつかのがらんどうの虚構の上に成立しているにすぎないのである。 優遇される人物・不遇に終わる人物[#「優遇される人物・不遇に終わる人物」はゴシック体]  ところで、自分には能力があるのに、才能を生かせる場所に置かれていない、あたら自分の能力、才能は朽《く》ち果ててしまうと言う人がよくおり、こういった嘆き節《ぶし》が赤ちょうちんあたりで、毎晩、繰り返されている。  私も六〇という歳を超えると、個々の人間の才能とか能力には差はない、と断言する勇気は持てない。たしかにある。しかし、それは能力、才能というより、適性と言うべきものではなかろうか。世のほとんどすべての人間は、何かには向くが、何かにはとことん向かないというふうに出来上がっている。ある種の適性とある種の不適応性という配線が、複雑にこんがらがってできているのが、一人の人間の人格ではないだろうか。そして、ひじょうな能力を発揮したと言われる人は、潜在的にその方面の仕事に向いた適性に恵まれていたのであり、たとえば、碁打ちなり、野球選手なり、音楽家なりに大変な適性があったということにすぎない。  そして、その次に大切なのは、その適性をうまく発揮できる場所や条件に、自分の力によってか、第三者によってか、あるいは偶然にか、神の思召《おぼしめ》しによってか、ともかく、そういう場に自分が置かれたということである。とてつもない天才は別として、その二つの条件の組合わせで、だいたい人間の一生は決められていく。  では、人間が、もし自分の適性なり能力なりを発揮しうる、たいへん恵まれた条件を獲得できるとするなら、それはいったい何によってであるのか。実は簡単なことで、潜在的能力を持っている人間の適性を外から認めてくれる人がいるかどうか、ということにすぎない。つまり結果として、その人間に有利な条件を与えるように、周りの人間の配慮がなされたかどうか、ということである。  そうすると、人間の能力をうまく生《い》かすための決め手は、その人間が成長しつつある段階において、その周りにいる人間の誰かから、好ましいと思われたかどうかにかかってくる。つまり、あの人間にはこういうふうな仕事をあてがってやるのが向くのではないか、というカンやヒントを働かせてくれる人が周りに存在してくれて、それが見えざる手になって、人間は有利な場に導かれていくのである。  ところが、一方でそういうことのまるで起こらない人間が存在する。この人は若かりしころ、きっと潜在的に質のよい能力を持っていたはずなのに、それがいつの間にか消えてしまったように思える。実証できないが、どうもそうとしか思えないような人物が、この世にはわんさといる。また逆に、さしたる能力はなさそうなのに、たいへん有利な条件を与えられて、狭いながらも自分の適性を筒いっぱいに伸ばしているような人物も、多く存在する。  つまり、この世には「不遇に終わった人物」と「優遇された人物」という二つのタイプの人間が存在し、しかも、この両者を分けるポイントは、その人物が人生の決定的な段階で、人に好かれたかどうかにかかっていると考えざるをえないのである。また、その好かれているということには無限のバラエティーがあって、たとえば�たいへん角々しい人間だが、どこかかわい気《げ》がある�とか、�何かチカッと光るものがある�とか、目利き、あるいは自分が目利きでありたいと願っている人物の目に止まるとか、実にさまざまな要素がある。つまり人間は、自分を取り巻く他人によって形成されている社会のメカニズムと、どこかで関わり合いを持つことによって、成長が促進されるものであり、自分自身が実現されてゆくのである。 読書の究極の目的とは[#「読書の究極の目的とは」はゴシック体]  問題は、社会的人間として、その一人の人間の生き方、あるいは生きるスタイル、全体としての感じ、これが社会的に好ましく思われるかどうかに最後は帰着してくる。ただし、これはつねに社会におべっかを使えということではない。一つのポイントを通過すれば、一見反社会的なスタイルを持ちながら、結局、社会のために役立つ人間として認められることは、おおいにありうるし、そういった人物に本物が多いのも事実である。  しかし、オギャアと生まれてこの方、一貫して社会的人間関係に適応できないという場合には、社会はそういった人間を捨てて行かざるをえない。それを「けしからん」とわめくのは勝手だが、人間関係とは持ちつ持たれつ。この世とは、誰かが車を引き、誰かがそれに乗るというような入り組んだ関係でできている。しかも、こういった社会観察のセンスというものは、ローティーンの頃におぼろげながらではあっても、たいていの人間が身につけているはずなのである。  やはり人間修行とは、最終的には、自分を生かす条件が与えられるために、あるいは、その条件が掴《つか》めるような人間像に自分が一歩でも近づくために、努力し、勉強することでしかないのである。そして、読書はそのためのほんの一部分の手段にすぎない。また、その手段が生かされるためには、何度も述べたように、たえざる自己反省力と世の中を見る目の二つが必要となり、その力を養うことがまた、読書の根幹の目的でもある。  だから、結局、読書の目的はたった一つ。現代の日本に生きるわれわれ日本人が、社会的人間として、自分自身にとって最も有利な生き方を実現するための栄養素が何であるかを発見するということに尽《つ》きる。しかし、何もかも一ぺんには読めない。とりあえずいちばん役に立ちそうな、ある程度普遍性を持ったものは何であるかという眼で、古典であろうが、外国の書物であろうが、現代のものであろうが、もう一度読み直してみる必要がある。つまり私は、この観点から、本書では勇を鼓《こ》して一一冊の書物に絞《しぼ》り、「人間通・世間通になるための読書法」というものを展開したわけである。 名著を選びだすカンとは何か[#「名著を選びだすカンとは何か」はゴシック体]  しかし、本当のところ、書物とは、たくさんの本を読んでみないと、そのおもしろ味が分からない。アランの言葉に、「芝居というものが本当におもしろくなるためには、度々劇場に出向かなければならない」という名言がある。たしかに『リヤ王』を生涯に一度だけ見たからといって、芝居のおもしろさが分かるものではない。  読書もそれと同じで、栄養価の高いものだけを読んで、あとはいっさい時間の無駄だと済ますことはできない。しかも、栄養価の高い書物を最も有効にソシャクするカンをつけるためにも、やはり書物の世界を、ある程度でいいからピンからキリまで、右から左まで、一応は彷徨《さまよ》ってみる必要はある。  つまり、昔から古典として崇められてきたものも読むが、身辺にある週刊誌をもおろそかにしないという気持ちでないと、古典の持つ立派な内容がそのとおりには伝わってこない。もし書物に関心があるのなら、乱読、雑読は案外有効である。さらに進んで、買《こ》うとく、積《つ》んどく、放《ほ》っとくのもまことに有効である。ただし、重大な、大切な古典にだけ没頭するといった古典崇拝というか、純粋なピューリタニズムといったものは、「百害あって一利なし」である。  われわれは猥雑《わいざつ》なる人間世界に住んでいる。だから読書の世界も、人間世界の実態を反映して同じく猥雑でなければならない。その猥雑が嫌いだという人は、現世が嫌いで、今の日本の社会が嫌いだということになる。しかも、それなら読書も、当然、嫌いだということになる。  人間にとっていちばんの根本は、平凡だが、われわれが与えられた寿命を自分なりに、できるだけ豊かに生きていくことでしかない。それには、現代の日本社会を大切に考え、あだやおろそかに思わないこと、さらに自分だけの思い上がった批判精神の権化《ごんげ》にならないこと、つまり、そういう硬直した人間にならないということを心掛ける必要がある。  イデオロギー的硬直が滑稽であるように、古典主義的硬直もまた、滑稽である。この世の運行の生理から推《お》して、やはり、そういうふうに言えるのではないだろうか。そして、そういう大前提に立って、私は本書で、これはお読み得品ですよというものを選び、私なりに説明してみたわけである。  読書に一般論は無意味である。読書は自己流であり我流である。自分のその時の必要に応じて、自信をもって楽しみながら我流を通す、それが読書の唯一の方法ではなかろうか。 本書は平成八年九月にクレスト社から刊行されたものを文庫化したものである。従って記述は当時の状況に拠っている。 〈底 本〉文春文庫 平成十二年四月十日刊